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『あなたのいるところ』第12話

2026年4月3日 投稿
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(十二)

 両親の間に立って、満面の笑みを浮かべる少年。
 気になったのは、歯並びだった。
 幼少期の遠野は、歯並びがいいとは言えなかった。
 上顎の中切歯(一番前の前歯)は極端に前に突き出しており、両隣の側切歯は押し込んだように奥まっている。下顎の歯は交互に並べたようにして生えていた。
 しかし小学校の入学式に撮影されたその写真では、わずかではあるが歯間にある隙間が狭くなっていたのだ。
 おそらく両親が気にして、小学校入学に合わせて矯正治療をしたのだろう。
 それ以降の写真を見れば、もっと明らかだった。
 しかし見たところ、ワイヤーのようなものは見えない。着脱可能なマウスピースだろうか。
「どうかされましたか」
 写真をじっと見つめる菫に、遠野夫人が不思議そうな顔をする。
「あ、いえ……失礼ですが、息子さんは歯列矯正をされていたんですね。この頃から歯並びが変わっているので」
 そう言うと、懐かしそうにそうそう、と目を細めてうなずいた。
「さすが歯医者さんね。写真を見ただけでわかっちゃうのねえ」
「ええ。この短期間でとてもきれいになっています。矯正器具が見えませんが、マウスピースだったのですか?」
 マウスピースはワイヤーに比べて固定力が弱いため、効果は遅くなりがちだ。簡単に着脱できるので、嫌がってすぐに外してしまう子供も多い。
「いえね、裏側だけ器具がついてるんですよ」
「裏側矯正ですね」
 裏側矯正は歯の裏側に器具を取りつけるため、見た目にはほとんどわからない。
 審美性が高い反面、歯の裏側は複雑な形状をしているため、装置の取りつけや調整に高度な技術が必要とされる治療法だ。
「母さんに学校でいじめられたら可哀想だって押し切られてね。入学までに間に合うように張り切っちゃって。まあ、結局間に合わず中途半端な時期になったんだっけなあ」
「当時はまだこのやり方があまり普及してなかったそうで。しかもあの子、金属アレルギーもあったから、普通の歯医者ではやってもらえなくて、大きな病院に行って。聞いていたよりずいぶん時間がかかったのよねえ」
 プラスチック製のブラケットが歯茎に擦れるのを最初は痛がって食事も一苦労だった、と夫婦が懐かしそうに当時を語る。
 もう四十年も前のことなのに、よく覚えているものだ。それほど二人にとって印象深い出来事だったのだろう。
 幼い頃のやんちゃそうな少年は、成長するにつれて落ち着いた表情になっていく。
 目が細く、鼻が丸い。父親によく似た顔立ちに。
 そして高校の卒業式。
 桜が満開に咲く校門の前で、並んで立つ親子の写真だった。
 一枚目はかしこまって口を閉じて手を後ろに組んでいる写真。二枚目は少し砕けて、笑顔で歯を見せている。
 これ以降、家族のアルバムは更新の頻度が減っていた。
 おそらく遠野が家を出て、自分で写真を撮ることが増えたからだろう。
 初めて遠野という男に会った日——遠野が医院にやってきた日のことを思い出す。顔立ちや服装は、もはやぼんやりとしか思い出せない。それなのに、男の歯だけは奇妙なほどはっきりと記憶している。
 胸が早鐘を打ち始める。
 焦り——菫は、焦っていた。
 何に?
 菫は青年へと成長した遠野の写真を食い入るように見つめた。
 違うのだ——歯の形が。
 あのとき見た男の歯と、明らかに違っている。
「平川さん……?」
 呼びかけられる声に、かろうじて相槌を打つ。
 十八歳にもなれば、大抵の場合乳歯はすべて生え変わり、歯並びや形が大きく変わることはない。差し歯や入れ歯などでなく、それが本人の、本物の歯ならば。
 歯科医の菫が、差し歯と本物の歯を見間違えるはずがない。
 あれは作り物の歯ではなかった。
 なのに、写真と実際に自分の目で見た男の歯の形が違うというのは、どういうことなのか。
 自分の記憶が間違っている?
 いや、そんなはずはない。
 あの日、診療後に一人院長室に残り、何かに駆られるように書き記した歯の形状。
 この違和感を見過ごせるはずがない。
 できることなら今すぐに遠野慎一郎の診療記録を見たかった。
 しかしそれは無理だった。カルテの保存期間は五年。それ以上を過ぎた記録は破棄する決まりになっている。この頃から数えても三十年が経っている。そんな昔の記録が残っているはずはなかった。
「すみません。つい見入ってしまって……」
 遠野親子とは知り合いだと嘘を吐いたが、これほど見つめていては深い関係と疑われてしまうかもしれない。
 しかし人のいい夫婦は少しも疑うような素振りを見せず、
「いいえ。私たちも久しぶりに昔の写真を見られてよかったわ。ねえあなた」
「そうだな。最近、めっきり見なくなってたから」
 とうなずきあっている。
 そして、小学校の入学式の写真をアルバムから抜き取って菫に渡した。
「この写真、稔に渡してもらえる?」
「いえ、その写真はお手紙を書く時に一緒に入れてあげてください。そのほうが稔くんも喜ぶでしょうから」
「そうね、そうするわ」
 菫は稔に手紙を書いたこともなければ、会ったことすらないのだ。
 人のいい夫婦を騙しているようで気が引けたが、本当のことを正直に打ち明けることはできない。
「一つだけ、伺ってもいいでしょうか」
 立ち上がる前に、菫は尋ねた。
「ええ」
「息子さんが歯列矯正をしたのは、どちらの病院か教えていただけますか」
 遠野夫人は目を瞬かせた。
 どうしてそんなことを聞くのかという目だった。
「仙台明洲会病院だよ」
 遠野さんが言った。それまでの穏やかな声色とは違う低い声だった。
「ありがとうございます。不躾な質問ばかりですみませんでした」
 菫は立ち上がって頭を下げた。
「いやいや、稔にもよろしく言っておいてください」
 そう言う遠野さんの口調は再び穏やかな老人に戻っていた。

 東京に戻ってすぐ、すぐにマンションに帰る気分になれず、医院へと向かった。
 裏口戸の鍵を開け、誰もいない静かな診療室を通って院長室のドアを開ける。
 電気をつけ、机からノートを取り出した。
 遠野が来院した日、口腔内の様子を覚えている限り詳細に記録した。
 歯列表に記した記号だけでは足りないと思った。
 数時間前に見た十八歳の遠野の写真。
 三ヶ月前に見た四十五歳の遠野の歯。
 二つの歯は明らかに違っていた。
 そして、三ヶ月前に見た遠野の歯は——やはり、良平の歯そのものだった。
 家族と折り合いが悪く、ずっと帰ってきていないという良平の兄かもしれないとも考えたが、やはり双子でもない限りそれはあり得ない。
 良平が、遠野慎一郎という男に成り変わっている?
 他人のふりをして生活している?
 にわかには信じられなかったが、もしそうだとしたら。
 ぞっと寒気を覚えた。
 写真の遠野と、実際に会った遠野が別人だとしたら——本物は、いったいどこにいるのだろう。
 勘違いであってほしかった。
 しかし、この紛れもない違和感が、その願いを無慈悲に打ち消してくる。
 見過ごせるはずがなかった。

 ——私は歯科医師なのだから。

 見たくないからと事実から目を逸らすのは、プロの医師失格だ。
 でも、まだ、確証は持てない。
 いまはまだ、自分の中だけの違和感に過ぎない。
 何か、はっきりとした証拠はないか。
 二人が別人だということを証明する何かが。
 あるはずだ。
 きっと、どこかに——。
 菫は時間も忘れて、たった一日分だけの診療記録を一字一句見落とさないよう、何度も繰り返し見直した。

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