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紙上健吾さん小説紹介『最後の皇帝と謎解きを』

2026年6月19日 投稿
@kengo_book

ミステリー小説には、いろいろなタイプがあります。 一撃必殺のトリック勝負のもの、社会派ミステリー、本格ミステリ……。 この小説は、ミステリーの仮面を被った、熱いヒューマンドラマです。 『最後の皇帝と謎解きを』の紹介です📚 #本の紹介 #おすすめの本 #小説 #小説紹介

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最後の皇帝と謎解きを

著者名
犬丸幸平/著
出版社名
宝島社
税込価格
1,760円

【スタッフのつぶやき】

最近、サカナクションの『夜の踊り子』の曲を当てはめた、インドネシアの伝統的なボートレースのミームがすごいですね。(この下書きを始めた5月上旬なので、記事公開の6月にはどうなっているか分かりませんが。)

しかし、サカナクションと言えば
番組『関ジャム』にサカナクションが来て、リハーサルの待ち時間中に丸山さんが『新宝島』のベースを遊びで弾いてて自然にドラムやギターも合わせだして最終的に山口さんまで歌い出したのが最高でした。

ところで、「新宝島」は、皆さんはなんて読みますか?
「しんたからじま」ですよね。
「しん」が音読み
「たからじま」が訓読みです。
つまり、「しん」が本来の中国から入ってきた読みで、「たからじま」は元々日本人が文字がなくても話していた大和言葉だそうです。
全部音読みだと「しんほうとう」だし
全部訓読みだと「あたらしたからじま」となります

この訓読み、という漢字を大和言葉に当てはめた使い方が、「漢字を日本語にした」なかなかの発明だったそうです。養老孟司先生が言ってる動画をどこかで見た気がします。
朝鮮半島やベトナム等も漢字文化圏だったのに漢字をやめてしまえたのは、日本語でいう音読み的な使い方でのみ輸入したため、廃止しやすかったらしいです(うろ覚え)。

例えば、
1883年に出版されたスティーヴンソンの小説『宝島』をイギリスで(もし文字がまだなかったとして)
『宝島』と書いて
「トレジャーアイランド」と読み、
『新宝島』と書いて
「シントレジャーアイランド」と読んでいたとしたら、その違和感、お分かりいただけますでしょうか?

 

さて、ところで皆さんは、ジュゲーリャンという人物をご存じでしょうか。
(ヒント:シー・ジンピン)

 

もう少し分かりやすく何人かまとめてみると、
①ジュゲーリャン
②ツァオツァオ
③サンクヮン
④リィゥベイ

これらは、
①諸葛亮
②曹操
③孫権
④劉備
の英語読みだそうです。
ヒントの人は、もちろん習近平(しゅうきんぺい)国家主席です。

 

いやー、よかった。曹操が「そうそう」で。
「ツァオツァオ」だと軽いですよね。

「いや、元の言語の発音を尊重すべきだ」
という主張も分かります。
でも言語には歴史と習慣と成り立ちがあります。

例えばドイツのことを他国はどう呼んでいるでしょうか。
ちなみにドイツ自身は「ドイチュラント」です。

日本  :ドイツ
英語  :ジャーマニー
イタリア:ゲルマニア
フランス:アルマーニュ
フィンランド :サクサ
チェコ :ニェメツコ

一番日本がましです。
でもそれは、鎖国時代に唯一交流のあったオランダの「ドゥイツ」経由で発音を取ったからです。オランダのお陰、たまたまです。
逆に近くの国々は、もっと前から交流があり、ラテン語の「ゲルマニア」からとっていたり、古代スラブ語で「言葉が通じない人」の「nemy(ネムィ)」からロシア語では「ネムツィ」になるなど、古代から交流があったからこその言葉の定着がある訳です。
日本だって、国際表記はJapanですが、中国の読みが「ジッポン」に近い発音で、それがヨーロッパに伝わって、結果Japanになったという記述も見ました。

お茶だって、
中国から陸路で伝わったのは「チャ」系で発音が伝わりました。
チャ → 日本
チャイ→ インド・トルコ・ロシア・モンゴル

一方、海路で伝わったのは「テー」系だそうです。
ティー→ イギリス
テー → スペイン・オランダ・ドイツ
テ  → フランス

日本へは最終的には海を越えてきましたが、ポイントはそこではなく、ヨーロッパへの海路の中国での港が福建省あたりで、そこでの発音が「チャ」ではなく「テ」に近い音だったからだそうです。

 

随分と話が逸れましたが、要は、中国語は日本にとっては文化が近すぎるので、混乱しているだけです。

諸葛亮(しょかつりょう)は、(もう)日本語です。
諸葛亮(ジュゲーリャン)は、英語発音ですが、発音を真似たという意味で(ほぼ)中国語です。
発音問題だけですとそうですが、漢字も簡体字で正確に表すと
诸葛亮(Zhūgéliàng)
なので、そう表すと、中国語だな、と思いますね。
「諸葛亮」とかいて、フリガナを「ジュゲーリャン」と振るからややこしくなっているだけです。

では、この作品で 紙上健吾さんが最後まで読めるか最初は不安になったという
現地の中国語読みフリガナは、良くないのでしょうか?

これは、読者が感情移入する主人公が、誰の立場で考えるかによります。
三国志は当時の現地での人間のやり取りをネイティブとして理解したいのであるから、全て日本語に訳しておかないと話が通じません。
劉備が諸葛亮に話しかけるときに、
「ジュゲーリャンよ、いやジュゲーリャンてこの外国人は誰やねん」と思っていたら話が進みません。
でも、この作品は日本人で現地生活が長い中国語ペラペラの一条剛という人物が主人公です。
そして、現地の人に「この外国人である日本人め」と思われている関係であり、
外国人であることを読者が感じることが大事になってきます。

つまり、三国志の様に現地の人になりきって物語を進めるのではなく、外国人扱いされている感じを含めて読書していく作品なのです。
だから、結果として、中国語のフリガナであるのは正しいと言えます。
ただその上で、私は面倒くさいので全て脳内で日本語読みに直して読みました。

 

「お前、なに全然関係ない小説の土台をネタに延々と語ってんだ」と思われるかもしれませんが、
実はこの構成こそが、最後のどんでん返しに関係があるのです。

私、とくにミステリはロクに読まずに来たのですが、紙上健吾さんの小説紹介を通じていくらかは読む様になったので、その感覚でいうと、
いわゆる、禁じ手に近いというやつではないのかと、かすかに思うのですが、詳しくはないのでよく分かりません。
しかし、明確に

「えーーーーーーーーー!! そういうことかい!!」

くらいには思いました。
テレビの『クレヨンしんちゃん』を見ていたら、急に映画版になったような気分です。
日常生活を描いていたのに、映画版だけ急にタイムトラベルしたり宇宙人が来たり。
『名探偵コナン』でいうと、急に爆発が大規模になったり。
『ドラえもん』でいうと、あ、もういいですか。

 

作品の中で、皇帝溥儀が徐々に変わっていくのですが、そのあたりも皇帝という非人間的な仕事の中で、それでも人であることを友であることを探っていく姿に最後の方は少しうれしくも寂しくも感じるのです。

もっとも、実際の溥儀は結構臣下に対してひどい対応を取ったこともあるそうです。
私が良く読む宮城谷昌光は、たしか「皇帝が人でなくなる」と表現しています。
部下が分かれて争い、自分の都合の良い皇子を王位につけようとする。その過程で競争相手(つまり兄弟)を叩き落すのですから競争が激化すると殺しあうようになります。骨肉の争いとはよく言ったものです。
この本では、そういった何十人もの争いではなく、限られた数人の日常生活のやり取りの中で、人が人ならざる方向に進む姿もかすかに感じられます。
それが、戦(いくさ)を中心とした小説よりずっと、身に染みて寂しく思う理由なのかもしれません。

 

(スタッフ:杜甫甫酒造)

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