(十)
夜中にかかってくる電話はたいていロクなことがない。
寝ていたところを会社用の携帯の着信音で起こされ、しばらく無視していたがいっこうに鳴り止まないので、慎一郎は仕方なくベッドから体を起こした。
携帯の画面にはいま工場にいるであろう、夜勤の責任者の名前が表示されている。
『あっ、遠野さん夜分にすみません』
通話ボタンを押すなり、相手は早口で言った。
『ちょっとシステムトラブルを起こしていまして、いま調整中なのですが……』
やっぱり、と心の中で愚痴を吐く。
「……わかりました。明日確認してみます」
五分ほどやりとりをした後、電話を切った。
小百合と稔は隣の寝室で寝ている。
稔が小学校に入るまでは三人並んで寝ていたが、あるとき突然、小百合が寝室を別にしたいと言い出した。理由は言わなかった。ただ一言、『別々にしてほしいの』。
その頃からすでに、小百合の心が自分から離れているのに気づいていた。
稔はもう小学校も高学年になるというのに、まだ母親の隣で寝ている。本来そこは自分の場所のはずではないか、という思いは口に出さず、飲み込んだ。
あれから四年——寝室を別にして以来、小百合と触れ合うことはいっさいなくなった。
長年連れ添った夫婦なんてどこも似たようなものだ、と五十代を目前にした、会社の同年代の男たちは笑っていた。
慎一郎は笑えなかった。
——あいつらと俺は違う。俺はいままで人の何倍も苦労してきたのだ。高卒だと馬鹿にされ、年下に偉そうな口を利かれ、それでも必死に家庭を守ってきた。
だというのに、一体なんだこのあり様は。あれだけ尽くしてやったというのに、妻まで自分を蔑ろにしようとする。
最近あまり熟睡できておらず、寝不足の日々が続いていた。余計なことを考えて苛立つのも、疲れがたまっているせいだろう。
階段を降りてキッチンの明かりをつける。換気扇のスイッチを押し、電子タバコを吸う。
昔は紙のタバコを吸っていたが、匂いがつくと小百合が嫌がるので、仕方なく電子タバコに変えた。あまり吸った気はしないものの、多少は気が紛れる。こんな偽物の煙でも——。
社内の喫煙所も数が減らされ、タバコを吸える場所はかなり限られている。いっそやめようと何度か試しはしたが、一度体に染みついた習慣は簡単にやめられるものではなかった。
換気扇にタバコの煙が吸い込まれていくのをぼんやり眺めながら、明日のことを考える。
十二月に入ってから、工場のラインを機械化するための試運転が始まった。
いまのところトラブル続きで、まだ本格始動とはいかないが、全面機械化が完了すれば夜勤の人数は半分以下に、人件費を大幅に減らすことができるという。
人件費を削減するためのシステム正常化のため、あくせく働いている自分が馬鹿馬鹿しくなってくる。
一応役職がついているとはいえ、平社員に毛が生えたようなものだ。
高卒で中途採用の身分では、この先大きな出世もないだろう。
出世どころか、歳をとれば不要とみなされ、いつクビを切られるかわかったものではない。大手企業の社員とはいえ、老後までいられる保証などどこにもない。
だからこそ、まだ〝あれ〟を止めるわけにはいかない。
——俺の居場所はここじゃない。
ある時から、そんな声が聞こえるようになった。
自分の声のようで、自分ではない見知らぬ誰かが語りかけてくるようにも思える。
——俺の居場所はここじゃない。
何度も、執拗に、まるで呪文のように、耳元で囁きかける。
その声に抗うことも、逃げることができないのも、知っている。
ただ、ひたすら身をひそめて、その声が聞こえなくなるまで待つしかないのだと。
「会社でトラブルがあったらしくて、しばらく遅くなるよ」
トラブルの内容をかいつまんでしても、小百合はこちらを労うこともせず、何の興味もなさそうに慎一郎に冷めた目を向ける。
「そう。いってらっしゃい」
「お父さん、行ってらっしゃい」
私服に着替えた稔が笑顔で送り出してくる。
「ああ、行ってきます。稔も勉強頑張れよ」
頭を撫でてやると、稔はうん、と笑顔でうなずいた。
この笑顔だけは、本物だと思えた。
偽りだらけの日常の中で、この幼い笑顔だけが真実だと……。
仕事終わりに携帯で綾香を呼び出し、いつものホテルに入った。
朝からトラブル対応に走り回り、体は疲れ果てていた。にもかかわらず、欲望は消えるどころか、抑えきれないほど高まっていた。
女の苦痛に歪んだ顔を見ると、高ぶった欲望がすうっと薄くなるのがわかった。
——もっとこの顔を歪ませてやりたい。
暴力的な思考が時おり頭の中を支配する。その思考が日に日に強くなっているように感じる。
これはまずいのではないか——そう思いつつもこの快楽をほかでは得られず、やめられる気はしなかった。
「明日も同じ時間に開けとけよ」
シャツを羽織りながら慎一郎は言う。
「え……明日もですか?」
「どうせ毎日定時上がりで暇だろ」
綾香は何か言いたそうに眉をひそめたが、結局それ以上は言い返せないのをわかっている。
綾香は一年ほど前にやってきた二十代の派遣社員だ。よほど忙しいときでなければ残業はなく、定時で帰っていく。
半年ほど前、喫煙所で世間話をしていたときに、綾香が「お金がない」とぼやいていた。
それなら五万でどうかと小声で持ちかけたら、あっさりついてきた。あんなに簡単に誘いに乗るくらいだから、最初からそれが目的だったのだろう。
とくに顔がいいわけでもない、平凡な女だった。回数を重ねるうちに、こんな女に毎回五万も払うのが馬鹿らしくなった。
ある時、寝ているときに裸の写真を撮って「誘いを断ったら写真をばら撒く」と脅しをかけた。効果はてきめんだった。
綾香は愕然とした顔をしていたが、それからは金がなくとも大人しく誘いに乗るようになった。
馬鹿な女だ。慎一郎は笑った。
無防備に醜態を晒したりするからこんなことになるのだ。
金がない若い女のために安くはない食事代くらいは出してやっているし、お互いの利害は一致している。別に悪いことをしているわけではない。もう少しで息の根を止めそうになったことは何度もあったが、ギリギリのところで堪えている。
金を払うのを辞めて以来、最初の頃のような愛想はなく、終始つまらなさそうにしている。
——つまらないのはこっちのほうだ。
たいしたとりえもないんだから、せめて俺を楽しませろよ。
綾香のアパートまで送って手を挙げる。
「じゃあ、また明日」
「はい。おやすみなさい」
機械のような声で綾香が言う。
『そう。いってらっしゃい』
朝に見た、小百合の能面のような顔を思い出す。
なんの感情もない、空気に向かって話しているようなあの顔。
あの顔を思い出すたびに、声が聞こえる。
——俺の居場所はここじゃない。
また、あの声が聞こえる。
誰だ、お前は。俺じゃない。やめろ。やめてくれ——
幻聴だとわかっていても、全身を掻きむしりたくなるような不快感を覚える。
その声が聞こえるようになったのは、あいつに会ってからだ。
あいつに会ってから、色々なことが狂い始めた。
もうこの世にはいないはずなのに、どこからか忍び寄り、嘖(さいなめ)めようとする。
土曜日の朝。十二月初旬、朝のニュースではまだ見頃の紅葉スポットが紹介されていた。
「天気がいいし、紅葉でも見に行こうか」
「うん、行きたい!」
居間で宿題をしていた稔が顔を上げ、声を弾ませる。
息子が行きたいと言えば、小百合は何も言わず、即席でもそれなりに手の込んだ弁当をこしらえる。
平日は毎日帰りが遅かった。仕事で疲れていたが、疲れているときほど衝動が抑えられず、毎日綾香を呼び出していた。
——休みの日くらい家族サービスしないとな。
どこの山がいいかな、そんなことを話していたとき、玄関のチャイムが鳴った。
インターホンの通話ボタンを押すと、モニター二人の男が映った。
『朝早くに失礼します。〇〇警察署の者ですが』
——またか。
「なに……?」
小百合が心配そうにこちらを見ている。
大丈夫だと目配せをして、玄関を開けた。
「お休みのところすみません」
仏頂面の男の警官が言う。隣には、髪の短い女の警官がいる。
二人とも、前に聞き込みに来た刑事とは別人だった。
「また和田さんのことですか」
和田直人が殺害された件で、何度か二人組の刑事が訪ねてきた。
死亡する数日前に、和田が慎一郎と連絡をとっていたことがわかったからだ。その上律儀なことに、和田はスマホのスケジュール帳に『遠野』とメモをしていたらしい。
しかし、それについてはすでに疑いは晴れているはずではなかったか。
和田の遺体が発見されたのは東京で、死後二週間ほどだった。慎一郎はその間ずっと、名古屋から一歩も出ていないのだから。
「和田さん?」
警官は一瞬ぽかんとしたが、すぐに理解したらしく、
「ああ、いえ、違いますよ」
と否定した。
じゃあ、なんだ。
まさか——〝あれ〟がバレたのだろうか。
そう思った瞬間、男の警官が思いもよらない名前を口にした。
「小野綾香さんをご存知ですね」
——は?
今度は慎一郎が呆気にとられる番だった。
綾香が、何か言ったのだろうか。
警官が慎一郎の肩越しに、家の中にチラリと目を向けた。
そして慎一郎に向き直って、言った。
「彼女のことでお聞きしたいことがあります。署までご同行願えますでしょうか」
