
1話
仕事と家庭の両立。それは、世の中の多くの女性が求める幸せの一種だと私は思う。
元々はキャリアだけを追い求められれば、私はそれで満足だった。大学で服飾を専攻し、大手ファッション事務所である小室デザインへ就職。ファッションデザイナーとして好きな仕事に全身全霊で没頭し、それなりの経験と地位を積み上げてきた。自分がデザインした服が人々の心を彩り、街を歩く姿を見る度に感じるのは、何にも代え難い喜び。一生かけて磨きたいと思える、誇りある仕事と巡り合えたと自負している。
しかし……年齢が三十代へ突入すると、自分の心境に変化が訪れる。
「結婚おめでとう、沙織。仕事辞めても、どうか幸せにね」
「美貴さん──ありがとうございます! 絶対幸せになります!」
結婚を機に、家庭を優先して退職していく同僚。長年一緒に働いてきた私でさえ見たことがなかった、晴れやかな笑顔で新たな人生へと飛び立っていく。もちろん自分が口にした祝福の言葉に嘘は無い。最終出社日に花束を受け取って感動の涙を流す沙織の姿は、当時未婚だった私にも心にグッとくるものがあった。
それに対して、結婚して子供を授かっても職場へ復帰し、変わらず第一線で仕事を続ける同僚もいる。
デザイン室は毎日が忙しい。仕事柄、他の人からは華やかに見えている反面、その裏には弛まぬ努力と苦労が常にある。その過酷さ故に、結婚等に関係なくリタイアして退職する人も少なくない。私も新人の頃は度重なるストレスで、生活もメンタルもギリギリな時期が何度もあった。
結婚や、自分の子供を持つことに対する憧れは、年相応に沸き立っていると自分でも自覚している。友人達のSNSに流れてくる赤ちゃんの写真や、楽しそうな家族旅行の投稿を見る度に、心のどこかで「いいな」と思うようになった。
だけど……当たり前のことだけど、自分の体はひとつしか無い。どう頑張ったって一日は二十四時間で終わってしまう。体力と時間は、みんな等しく有限だ。デザイナーとしてキャリアを続けていくなら、人生においてあれもこれも欲張ることはできない。それは自分が一番よく分かっていた。
ところが──そんな悩みを受け入れてくれたのが、今の夫である慎吾だった。
「俺もできる限り美貴を支えたい。仕事と家庭、どっちも両立できるように二人で頑張ろうよ」
「慎吾──ありがとう。私、欲張っちゃってもいいのかな」
「欲張るっていうか……当たり前に求めていいでしょ。俺だって仕事は続けるし、二人ならきっと大丈夫だよ」
どちらか選ばなければならないという葛藤に蝕まれていた私の心を、慎吾はそんな優しい言葉で癒してくれた。彼との結婚を迷わず決意したこの瞬間を、私は一生忘れないだろう。
IT企業で営業マンとして働いている慎吾だって、決して忙しくないわけではない。だけど──愛する人からの「大丈夫」という言葉は、迷っていた私の背中を大きく押してくれた。家族となった今でも、そのことはずっと感謝している。
「一緒に幸せになろう、美貴」
「うん──。ありがとう、慎吾」
*
夫婦共働きで結婚生活を送っていた私達。やがて私は念願だった子供を授かり、長男の李都が誕生した。
我が子を抱き上げた瞬間、初めて産声を耳にした瞬間は、この上ない幸せだったことを今でも鮮明に覚えている。自分の幸せはもちろん、この子の幸せの為にも、これまで以上に頑張っていかなければならない。李都の顔を見つめながら、私はそう強く感じた。
李都が産まれてから仕事は辞めず、一年間育児休業を取得して仕事を休んだ。慣れない育児は想像以上に大変だけど、李都の成長が何よりの喜びだった。
しかし、ファッション業界において一年のブランクは大きい。流行は目まぐるしく移り変わる。小さな子供と同じく、少しも目を離すことはできない。李都と過ごす時間も大切だけど、同時にデザイナーとしての勘が鈍らないよう、家事育児の合間を縫って業界の動向をチェックした。同僚に無理を言って、リモートで企画会議に出席だけさせてもらった時もあったけど、さすがにそれはやりすぎだったと今では少し反省している。
出産してからは、過ぎていく時間があっという間だ。長いと思っていた育児休業はすぐに終わりを告げ、李都を保育園に預けて出社する日常がスタート。戦争のように忙しい日々だけど……一日として同じ日は無い。保育園で新しい遊びを覚えてきたり、少しずつ言葉を話せるようになったり。子供の成長を見ていると、毎日が本当に新鮮だ。これが母としての幸せか──と、しみじみ実感している。
「李都ー! 早くご飯食べて着替えて!」
三歳になり、体力もついて活発に走り回るようになった息子を何とか捕まえて、大急ぎで朝の支度に追われる。自分もオフィスカジュアルな服装に身をまとって、会社へ向かう準備を整えた。
仕事と家庭の両立。かつては夢物語だと思っていた、世の中の多くの女性が求める幸せを、私は手に入れた。そんな奇跡を噛み締めながら、李都と手を繋いで家を出発した。