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『キャリアと家族の狭間で』第2話

2025年8月15日 投稿
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2話

 他人から見たら、全てが順風満帆に見えるであろう私。しかし……現実はそう甘くない。この日常を保つ為に、自分のキャパシティーを遥かに超える馬力を注ぎ込み、毎日を生きている。

 ガス欠寸前な体を奮い立たせて、ふうっと深呼吸。夢中で仕事に没頭していると──定時を知らせるBGMがデザイン室に響き渡った。
「もう五時か……ヤバい、急がないと」
 パソコンに集中させていた意識を、無理やり現実世界へ引き戻す。李都が通っている幼稚園へのお迎えの時間を考えると、のんびりしている暇は無い。今日中に終わらなかった仕事はデザイン室のメンバーに引き継いで、手帳とパソコンを閉じる。
「すいません、お先に失礼します」
 そう言って、足早にオフィスを後にした。
 他のメンバーはみんな仕事に集中していて、ゆっくり私に挨拶を返す人はいない。その忙しげな雰囲気を察してしまい、感じなくていい罪悪感が胸に広がる。別に定時なのだから「すいません」なんて謝る必要ないのに。
 私だって結婚前は夜遅くまで仕事に明け暮れ、疲れながらも達成感に浸りながら退勤していた。残業が嫌いなわけではない。ただ、子供の為。判断を迷ったり、周りに気を遣ったりする時間さえ、今の私には限りなく少ないのだ。

 駐輪場へ向かい、自転車にまたがって勢いよく駆け出す。道のデコボコで振動する度に、後ろに備え付けた幼児用シートがガタっと揺れる。本当は電動アシスト付きの自転車が欲しかったけど……想像以上に高価で諦めた。
 まぁ、良い運動だと思って頑張るしかない。そう思いながらペダルを漕ぎ続け、李都が待つ保育園へ到着した。
「ママー!」
「李都、おかえり!」
 まるで何かから解放されたかのような笑顔を浮かべて、こちらにやって来る息子。それは毎回、私の頭に渦巻いていた雑念を吹き飛ばしてくれる。結局は、私も子供が大好きなんだ。

 さっきより重くなったペダルを力いっぱい踏ん張り、家路を急ぐ。時刻は既に六時を過ぎていて、帰ったらやらなければいけない家事を思い浮かべながら時間を逆算する。今日も変わらず、全てがギリギリである。
 まず李都のご飯を作って食べさせ、その次は洗濯、そして洗濯機が回っている間に一緒にお風呂に入る。私のご飯? そんなのは後回しだ。お腹はペコペコ、さっきまでの幸福感はどこへやら……。
 李都の髪を乾かしたら、動画サイトに接続したスマホを渡す。これがいつものルーティーン。と言うか、これしか李都がおとなしくなる方法は無い。その間に私も髪を乾かし、回し終わった洗濯物を干す。ゆっくり座っている時間なんて存在しない。

 そして、家事を全て終えた後、李都から見えないキッチンの隅で会社用のタブレットを起動させる。他のメンバーに任せていた仕事のチェック、取引先へのメール返信、それから次の案件に向けての準備。やることは山積みだ。
 ちなみに何故キッチンなのかというと──李都が動画に夢中になっている集中を切らさない為と、ここでようやく私のご飯を食べる為である。レンチンで出来上がる簡単なご飯を済ませながら、一時的にデザイナーとしての思考回路に戻す。家事、育児、自分の食事、そして仕事。全てが併行してブルドーザーのように進んでいくような感覚だ。

「ふぅ……今日はこんなもんかな」
 ひとまず、自分の中で決めていたタスクを完了させ、キッチンボードの上にタブレットを置く。すると、私のそんな姿を見計らったかのように、ガチャっと玄関の開く音がした。慎吾が帰ってきた。
「慎吾、おかえり。今日も遅かったね」
「ただいま。主任になってから忙しくなってな……いつもすまない」
「ううん、いいのよ。ご飯は?」
「腹減りすぎて途中で食べてきた。今日はもう寝るわ」
 ジャケットを脱いでネクタイを緩めた慎吾は、そう言って寝室へまっすぐ歩いていく。
 李都のことは無視? 咄嗟にそう思ったけど……彼の疲れた表情を見ると、そんなセリフを発することすら躊躇ためらった。
「そう──分かったわ」

 リビングへ戻る足が急に重くなり、思わず溜め息が漏れる。
 キャリアを重ねて忙しくなっていく慎吾がうとましくもあり、羨ましくもあった。令和に移り変わって進化したはずの現代、多様性だなんだと言っても……母親が家事や育児から逃げることはできない。私だってキャリアは諦めたくない。こんな僅かな隙間時間にも、必死で仕事をねじ込んでいるのに……。
 仕事と家庭の両立。字面だけを見れば、たしかに叶えているかもしれない。だけど……実際に蓋を開けてみると、こんなカオス的な有り様である。結婚前に夢見ていた理想とは大きくかけ離れていて、色々と頭を抱える。

 リビングのドアノブに手を掛けて、中へ戻る。眠そうに目をこする李都と一緒に寝る準備を済ませ、慎吾が眠る家族の寝室へ向かった。
 部屋中に響き渡る派手ないびきは、李都はもう平気らしい。私はまだ慣れていないけど、最近は疲れの方が上回ってすぐに眠ってしまう。
「はぁ……やっと今日も終わった」
 おそらくこの疲労感は、どれだけ眠っても取れないだろう。そんなことを思いながら、今日も深い眠りについた。

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