(十三)
窓際に並ぶ三つのテーブル席の、真ん中の席。そこにぽっかりと、穴が空いたようだった。
そこはいつも、舞が座っていた席だ。ふらりとやってきて、ハーブティーを頼む。季節のフルーツを使ったシャーベットを出すと、嬉しそうに顔を綻ばせた。
舞はそこで人を待っていた。来る日も来る日も、ずっと。
『生きている人でも、会えることはあるんでしょうか』
『わたしは昔、一度だけ、ここで生きている人に会ったことがあります。それがこのお店を始めるきっかけでした』
半年前に交わした会話を思い出す。
会えたらいい。かおるは願いながらハーブティーを淹れた。舞が店を訪れるたびに、心を込めて。
でも同時に、舞がその人物と再会することで、何かよくないことが起こる予感もあった。
はっきりとした根拠はなかった。ただ、舞はその人物に縛りつけられるようにして、この世に留まっているように見えたから。
そして――
“よくないこと”は、実際に起こってしまった。
正確には、もうすでに起こっていたことが明るみになったのだった。
数日前、イギリスで日本人女性が殺害されたというニュースが話題になった。
被害者は二十五歳のバレエダンサー、吉川舞。
容疑者は同じバレエ団に所属するバレエダンサー、三石瑠夏。
二人は幼少の頃から同じバレエスクールに通い、互いに切磋琢磨してきたライバルであり、友だった。
遺体は瑠夏の部屋の屋根裏から見つかった。
白骨化した遺体は白いドレスに包まれ、足の部分には新品のバレエシューズが添えられていたという。
かおるがテレビのニュースや雑誌や新聞をかき集めて知り得たのは、そこまでだった。
瑠夏はどんな思いで舞にドレスを着せたのか。
この半年間、何を思って過ごしてきたのか。
それはきっと、本人だけが知ることだろう。
事件は解決した。表面的には。
けれどもかおるの中では、澱のようなわだかまりが重く沈み込んでいた。
果たしてあれが正解だったのだろうか。
店に来るお客さんには、幸せな気持ちで帰ってほしいと願っている。
けれど、真実を知ることと幸せは、一直線では結べない。
すべてを思い出し、真実を知ることが、舞にとって幸せだったのか。知らないままのほうがよかったのではないか……。
こういうとき、答えをくれるのはいつも父だった。
けれどその父と話すことは、もう叶わなくなってしまった。
もう二十年前もの間、父はずっと寝たきりなのだから。
今日は午前中だけ店を開けて、午後からは『CLOSE』の看板を立てた。
途中、花屋に立ち寄ってから、病院に向かう。濃い紫色の花びらがふわりと風に揺れた。
病室の扉を開けると、カーテンの奥で人影が動いた。
「お母さん、また仕事サボってたの?」
かおるはナース服の母を見て苦笑した。
「失礼ね。サボってるんじゃなくて、看病よ」
「お母さんの担当、隣の病棟でしょ?」
「師長だから融通がきくのよ」
母は父が入院しているこの病院の看護師をしている。そして暇を見つけては、父の様子を見に来ている。職権乱用だ、とかおるは思っているけれど、それを二十年も続けているのだから感心する。もちろんサボっているわけではなく、仕事をこなしてから来ているのを知っているからこそだ。
「今日で二十年だね」
かおるは独り言のように、ぽつりとつぶやいた。
「そうね」
母がベッドのそばの丸椅子に腰掛けて、父の顔を見ながら応える。
二十年前――
かおるは当時、中学生だった。
『今後、お父様の意識が戻ることはないでしょう』
医者の言葉に、かおるは目の前が真っ暗になった。
かおるは父に憧れて医者を目指していた。父と話すことは二度と叶わないと知った時、その未来も同時に断たれたような気がした。
植物状態にある人の多くは、五年以内に息を引き取るという。二十年もその状態を保っているのは、かなり稀なことだった。生命力が強いのだろう。
そしてさらにごく稀に、その状態から意識が回復するケースもあるという。時間が経つほどその可能性は低くなるけれど、かおるはその望みをまだ持ち続けていた。
いつか、きっと、また会える。あの時みたいに――。
「ああ、もうそんな季節なのねえ」
母がかおるの手元を見て懐かしそうに言った。それでようやく、自分が花を持っていたことを思い出した。
秋になると、かおるは毎年その花を見舞いに持ってくる。珍しい品種なこともあり、置いてある花屋が少ないので、少し遠回りをすることになるのだけれど。
「水、変えてくるね」
かおるは花瓶と花を持って病室を出た。
淡いピンク色の花びらがくるんとカールして、外に向かって開いている。
秋になると、父は自分の病院に毎年ピンク色のネリネの花を飾った。
ネリネはヒガンバナ科の花で、色合いは違っても形はほぼ同じなので、看護師たちには縁起が悪いと不評だった。
けれど父は評判などおかまいなく、
『むしろ縁起がいいんだよ。ネリネは再会を願う花だからね』
と言って笑っていた。
病院を出て車に乗り込もうとしたとき、ふいに視線を感じた。
振り向いたけれど、誰もいない。
「……?」
不審に思いつつ、車に乗り込み、すぐに発進した。
ふたたび視線を感じたのは、明日の仕込みのために店に戻って車を降りたときだった。
気のせいだと思いたいけれど、一日に二度もあるとさすがに安心できなくなる。
危険を感じたら即110番するつもりで、スマホを手に握りしめた。
「……誰?」
いよいよ我慢できなくなって、スマホを耳に当てながら振り向いてそう言った。
「コソコソ隠れてないで、出てきたらどうですか?」
しばらくして、建物の影から女性が姿を現した。長い前髪で顔の半分を隠し、よれた服を着ている。線の細い体つきから女性と判断したけれど、実際のところはわからない。
落ちてきた陽が影をより濃くしていて、まるで本物の幽霊のようだった。
「最近、わたしのことをつけていたのはあなたですか?」
女性は応えない。
「今日はもう閉めるつもりでしたけど――お店にいらしたのなら、どうぞ中へ」
かおるはにっこりとほほ笑んで言った。
女性は驚いたように顔を上げた。
「い、いいんですか……?」
「もちろんです。お客様ですから」
かおるはそう言って、扉を開けた。
棚から瓶を取り出して、ふたを開けた。ふわりと広がるハーブの香りが、少しだけ心を落ち着かせてくれる。
「お待たせいたしました。こちら秋冬限定の、エルダーフラワー、ローズヒップ、レモングラス、シナモン、ジンジャーのブレンドハーブティーでございます。抗菌作用のあるハーブを使用しており、体の内側から強くするブレンドです」
女性は頷き、無言でガラスのティーカップに口をつけた。
しかし一口飲んだだけで、すぐにテーブルに置いた。
「あの、わ、私、あなたに言わなければいけないことがあって……」
そして、ガバッと頭を下げた。
「ごめんなさい、私、あなたのお父様にひどいことを……」
「顔を上げてください」
かおるはにっこりとほほ笑んで言った。
その女性と直接顔を突き合わせて話すのは初めてだった。
おまけに顔の半分は長い髪で隠れている。声や仕草から判断できるほど、かおるはその人物のことを知らない。
でも、病院からここまで、かおるをつけてくる人物がいるとしたら、思い当たるのは一人だけだった。
それもほかでもない、今日、この日に。
彼女は父の病院の患者だった。精神科専門の、小さな病院だった。
二十年前、この辺りはまだ開発が進んでおらず、住宅もいまよりずっと少なかった。鬱蒼とした木々に覆われて、横長の白い建物が建っていた。
学生時代は友達から「怪しげ」とか「変人の巣窟」とか「近づいたらだめって言われた」とか、散々な言われようだったけれど、かおるはその病院が好きだった。
父のことを尊敬していたし、患者さんたちはみんな優しかったから。
みんな、知らないだけだ。ここの人たちがどういう思いでここに来たのか、知らないからそんなふうに言えるのだ。
父は患者たちから慕われていて、よく治療に関係ない悩み相談などを聞いていた。彼女もその一人だった。
入院したばかりの頃は頻繁に会いに来ていた家族や友人がだんだんと足が遠のくようになり、世界が病院の中だけになっていった。
彼女はよく夢を見た。起きていてもたびたびあるはずのない妄想に囚われて、夢と現実の区別がつかなくなっていた。
彼女が混乱して暴れ出すたびに、父が駆けつけてなだめていたのをかおるは何度か目にしたことがあった。
彼女は懸命に治療して病気を治し、無事退院することになった。家族が迎えに来て、嬉しそうに病院を去っていった。
彼女が父を刺したのは、その一ヶ月後のことだった。
友人も、同僚も、家族でさえも、自分のことを危険人物とみなしているのがわかった。
入院する前とは明らかに違う態度は、彼女をふたたび容赦なく孤独の中へ引きずり込んだ。
あの病院のせいだ、と思った。あの病院が、自分の大切なものを奪ったのだ。
その絶望は次第に攻撃的なものになり、病院から出てきた父を襲った。
この男さえいなくなれば、すべて元通りになると信じて。
「あなたの生活は元通りになりましたか?」
かおるは笑みを浮かべたまま尋ねる。
女性は前髪の隙間から呆然とかおるを見つめた。
そして頭を振った。
「そうですか」
そうだろう、とかおるは内心思う。
彼女の周囲の人たちは、とっくに彼女のことを見放してしまっていた。
あの病院は、そういう人たちが最後に流れつく救いのような場所だったから。
だからといって、同情はしない。
差し伸べられた父の手を、彼女は自ら切り離したのだから。
「謝罪は受け入れます。でも、もう二度とここへは来ないでください。わたしの家族の前にも現れないでください。あなたの罪の気持ちを軽くするのをお手伝いするつもりはありませんので」
かおるは笑みを崩さずに言った。
「ハーブティー冷めてしまわないうちに、どうぞお召し上がりください」
「ありがとうございました」
扉を閉めて、はあ、とカウンターに手をついた。
――これでよかったんだよね。お父さん。
心の中で、父に語りかける。
『笑顔はお前を守る鎧になる』
いつだったか、父は言った。
だから、人前では泣くな。泣くのは一人になってからだ、と。
中学生だった当時は、その言葉の意味がよくわからなかった。
でも、いまならほんの少し、わかる気がした。
怒りや憎しみを感情のままにぶつけても、何にもならないと知っていた。
それなら冷静なふりをして、笑っていたほうがいい。
目に浮かんだ涙を拭って、棚から瓶を取り出した。
泣きたいときは、ハーブティーだ。
カモミール、ラベンダー、レモンバーム、ネリネのブレンドハーブティー。
ネリネの花言葉は『また会う日を楽しみに』
オレンジ色のハーブティーをポットから注ぎ、目を閉じて、ゆっくりと飲む。
それはかおるの、子供の頃からのおまじないみたいなものだった。
嫌なことがあったとき、疲れているとき、悩みがあるとき、目を閉じてゆっくりお茶を飲むと、不思議と心が軽くなるのだった。
前に一度だけ、ここで父に会ったことがあった。
病院を閉めた後、廃虚となったこの場所で。
かおるは高校生で、進路に悩んでいたときだった。目指す存在を見失って、どこへ進めばいいのかわからなくなっていたのだ。
病院のベッドで寝ているはずの父が、空っぽの部屋の真ん中に立っていた。
『目標なんて何度変えてもいい。お前はお前のやりたいことをやりなさい』
父は優しい口調でそう言ったのだった。
ほんの数分の、短い会話だった。
けれどかおるはそのとき、自分の進むべき方向を見つけたような気がした。
――ぽとり。
と、涙がティーカップに落ちて、オレンジの液体をかすかに揺らした。
そのとき、扉が開いた。入ってきたその人の姿、かおるは目を見開いた。
体は痩せ細っていない。髪もきちんと生えている。子供の頃、よく見慣れた父の姿だった。
かおるは立ち上がって手を伸ばした。
「お父さん……」
父はかおるの前に立ってにっこりとほほ笑んだ。
「大きくなったね」
「そりゃあ、もう大人だからね」
笑おうとしたけれど、できなかった。
でも、いまは何からも守る必要はないから。
父は小さな子供にそうするように、かおるの頭をなでた。
「この場所を守ってくれてありがとう。父さんにもハーブティーを一杯淹れてくれないかな」
かおるは両目に涙を浮かべて、満面の笑みで言った。
「もちろん」
父が息を引き取ったのは、それから三日後のことだった。
きっと、生きている最後の時間を使って、会いに来てくれたのだろう。
一週間店を休んだ後、また、いつも通りに店を再会した。
今日もまた、この喫茶店に、大切な人との再会を願う誰かがやってくるかもしれない。
かおるにできることは、ただおいしいハーブティーを淹れて、彼らの行方を静かに見守ることだけだ。
窓の外でゆらりと影が揺れる。扉が開く。
「いらっしゃいませ」
かおるはにっこりとほほ笑んで、新たな客を花の香りに満ちた店内へと迎え入れた。
