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『キャリアと家族の狭間で』第4話

2025年9月12日 投稿

4話

「本日、診察のご予約はされていますか?」
「よ、よやく……?」
 病院の受付に座る女性は、涼やかで機械的な表情をこちらに向ける。自転車を漕ぎ続けて息切れしている上に、発熱した息子を抱きかかえている私とは正反対だ。そのアンバランスさが、焦る気持ちにより拍車をかける。
「ええと……予約はしてません」
「ではこちらの番号でお待ちください」
 そう言って手渡された小さな紙を受け取り、待合室へ進んだ。
 平日の小児科はものすごく混雑している。そりゃ予約が必要なわけだと納得したけど、そもそも今朝まで元気だった子供に対して予約なんて不可能だろう……と、心の中で一人不満を漏らした。

「李都、もうちょっとだからね」
 息子にそう言い聞かせて励ましながら、人口密度の高いソファーへ腰掛ける。
 受付で貰った紙を見ると、そこには『89』と書かれていた。しかし……壁掛けのモニターに映し出されている、現在診察中の番号は『62』。思わず目をそむけたくなった。
「嘘でしょ……全然”ちょっと”じゃないわ」
「ママ~頭痛いよぉ」
「えぇ、そうね。先生に診てもらうまで頑張ろうね」
 李都には見せられないと思った。こんなに苦しそうなのに、私達の前にはまだ二十人以上もの患者が並んでいる。少しでも早く楽にしてあげたいと思う気持ちをグッと堪えながら、息子の体をギュッと抱きしめた。激しく泣き叫んだり、言うことを聞かなかったりする子供達が院内に大勢いる中で、腕の中でじっとしている李都は本当に偉いと思う。

「あっ──そうだ」
 そんなことを思っている内に、良いことを思い付いた。
 診察を待つ今の内に、少しでも仕事を進めよう。没頭してタブレットをいじることはできなくても、メールや資料の確認くらいはできる。そう思い、鞄の中へ手を入れた。
 しかし……モニターの下に貼られた注意書きが不意に目に入った時、その小さな願望すらも絶たれる。
[電子機器の使用はご遠慮ください]
 そうだった……と思い出し、一人落胆する。掴んだスマホから手を放して、渋々鞄から引き抜いた。そういえば初めて小児科へ来た時、注意書きに気付かずメールの返信を打っているところを注意されたんだった。どれだけ仕事人間なんだよ──と自虐したくなる。

 結局、李都を励ましながらひたすら待ち──私達の番号が呼ばれたのは、受付から二時間近く経った後だった。
 解熱剤と風邪薬を処方してもらうことになり、これでようやく李都を楽してあげられると思うとホッとする。これだけ待ったのにもかかわらず診察がものの五分程度で終わったことには少し疑念を抱いたけど……前に二十人以上もの患者が並んでいたら、そりゃそれくらい時間はかかるよなと待合室に戻った後に思い返した。
 そして受付での会計と処方箋の受け取り、次の調剤薬局でもそれなりに待たされ、薬を手に入れた頃には既に夕方になってしまった。オレンジ色の西日が容赦なく照り付け、自転車のサドルが燃えるような熱さになっている。だけど……李都のことを思うと、またがる以外の選択肢は存在しない。
「さぁ、帰ろっか李都。もうすぐだよ」
 保育園から電話が来た時、まだ午前中だったよな……とぼんやり考える。大量に浪費したこの時間を仕事を充てられたら、ファッションショーの準備がどれだけ進んだかと思うと、本当に気が重くなる。
 だけど、考えても解決しないことは分かっている。両立すると決めたのは自分自身。下手な雑念は捨てて、前へ進み続けるしかない。そう自分に言い聞かせて、ペダルを漕ぎ続けた。

 途中でコンビニへ寄り、パックご飯と子供用の甘いレトルトカレー、そしてカップラーメンを購入。この時初めて、李都も私もお昼ご飯を食べていないことに気が付いた。李都は高熱に苦しみ、私はそんな息子の為に必死で、空腹すら忘れていたのだ。
 押し寄せる疲れを引き連れながら、やっとの思いで帰宅。薬を飲ませた李都に即席のカレーライスを食べさせ、私もカップラーメンをすする。これで一晩ゆっくり寝れば、李都の体調も少しは良くなるだろう。そう思って安心すると、一気に肩の荷が降りた気がした。
「はぁ……今日も疲れた」
 李都を寝かしつけた後、仕事を進めようとタブレットを手に取る。だけど、激しく襲いかかる眠気にどうしても勝てず……今日はいいやと開き直り、李都の横で泥のように眠った。

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