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『キャリアと家族の狭間で』第3話

2025年8月29日 投稿

3話

 体力も気力もギリギリの生活が果てしなく続く。李都が保育園を卒園してくれたら、もう少し楽になるのだろうか──。そんな気持ちが時々頭をよぎるけど、目の前の忙しさに上書きされて、すぐに打ち消されてしまう。

 そして、いつものように李都が動画に夢中になっていた夜。会社のタブレットで仕事を進めていた私に、慎吾が追い打ちをかけるような事実を突き付ける。
「来週から一ヵ月出張行くことになった」
「えっ……一ヵ月も?」
 思わず動かしていた指を止める。顔を上げて慎吾の表情を見たけど、本人はこちらを見ようともせず、疲れた様子でネクタイを緩めている。
「ねぇ、ちょっと待ってよ。李都もいるのよ? そんなに長期で家空けないでよ」
 普段の私にしては珍しく反論した。たとえ期限が決まっているとしても、共働きの状態から一ヶ月もワンオペになるのは本当にキツい。しかも来週なんて急すぎる。できれば今からでも阻止したいくらいだ。
 しかし……そんな私の願いは、一瞬にして崩れ去る。
「仕方無いだろ、仕事なんだから」
 反論するなと言わんばかりに、慎吾は冷徹にそう言い放った。私に対して背中を向けたまま、「キャリーケースどこにあったかなぁ」と呟いてクローゼットを漁り始める。
 相談も無しに勝手に決めるなよ、と心の中で罵った。仕事で忙しいのは分かる。だけど、どんな状況であれ、小さな子供がいるという自覚くらいは持ってほしいと思った。

 その翌週──結局、慎吾は悪びれる様子も無く出発。
 結婚前に「二人で頑張ろうよ」と語っていた決意はどこへ行ったのか……。「なにが”二人”だよ、私”一人”だけじゃねぇか」と、李都のいない場所で溜め息を漏らす。保育園へ向かう足取りも、心なしかいつもより重くなった気がした。

   *

 それからさらに一週間が経過した。
「美貴さん、資料のチェックお願いします」
「オッケー任せて。次のファッションショーの準備、抜かり無いようにね」
 後輩が仕上げた資料を受け取り、目を通し始める。仕事をしている間は、全てのマイナスの感情を忘れることができた。
 幸いなことに、仕事も家庭も平和な日常が進んでいる。このまま何も起きずに、早く慎吾が帰ってくる一ヶ月が過ぎてほしい。そう思いながら、仕事に没頭した。

 しかし……平穏を願う時に限って、その均衡を破る出来事は起こってしまうものである。
「美貴さん──ねぇ、美貴さん」
「へっ? ど、どうしたの?」
「スマホ、鳴ってますよ」
 先ほどの後輩が私にそう呼びかける。あまりに集中していて、机の上で振動するそれの存在に気付かなかった。
「あぁ──ありがとう」
 確認していた資料を置いて、スマホに目線を落とす。そして、画面に表示された電話番号を目にした瞬間……思わず目線を逸らしたくなった。
 李都が通っている保育園からだ。時刻はまだ午前、この場合ほぼ確実に……良い知らせではない。一度呼吸を整えて、恐る恐る電話に出た。
「も、もしもし?」
『もしもし、李都君のお母さんですか? 実は李都君が熱を出してしまって、今すぐ迎えに来てくれませ──』
 
 あぁ、何てタイミングの悪さだ。耳に入ってくる全ての音や声が遠ざかっていく。パズルのように綿密に組み立てていた一日のスケジュール。その全てのピースが、音を立てて崩れ去った。
 保育園の先生がその後何て言っていたのかは、正直よく覚えていないし、そもそもあまり聞こえていない。話し声が途切れたことを確認して、「分かりました」とだけ返事をして電話を切った。

 資料をキャビネットに片付け、唇を噛みながら手帳とパソコンを閉じる。
 仕事を続行する、という選択肢は無い。どれだけ頭を働かせてアイデアを捻り出しても、それは覆らない。仕事を早退して、息子を迎えに行く。今、私に選べる選択肢はそれしか存在しない。
「すいません、息子が熱を出してしまって……お先に失礼します」
 また、謝らなくてもいいのに「すいません」と言ってしまった。本当に私が悪いの? そう自問自答したくなるけど、そんなことを考える余裕も無く駐輪場へ向かう。
 ペダルを漕ぎながら、頭の中で色々な雑念が渦巻く。こんな時、慎吾は何も考えずに仕事を選べるのに。何で私だけが、同時に背負わないといけないんだ……。そう思うと、自分の置かれた状況があまりに理不尽で、涙が出そうになった。

 保育園へ到着すると、おでこに冷却シートを貼った李都が私のお迎えを待っていた。デザイナーとしての思考回路から、母親としての思考回路へ瞬時に切り替える。
「李都、苦しかったね。よく頑張ったね──。今からお医者さん行こっか」
 そう言って、体温の上がった息子を抱きかかえる。私も苦しいけど、今の李都はもっと苦しいんだ。そう自分に言い聞かせて、小児科のある病院へ自転車を走らせた。

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