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『喫茶ネリネで会いましょう』第10話

2025年9月5日 投稿

(十)

「なんで……アンタがここにいるのよ?」
 花音は舞の肩を掴んで言った。
「なんでって……?」
 突然の豹変ぶりに戸惑いながら言うと、花音ははっとしたように手を離した。
「あっ、ごめんなさい、急に」
「こちらこそ、突然話しかけたからびっくりさせちゃったよね」
 舞は苦笑しながら謝った。
 十数年ぶりに再会した知り合いに、どういう風に接すればいいのか、わからなかった。
 でも、いまはそんなことを気にしている場合じゃない。
 ようやく会えたのだ。瑠夏と繋がりのある人に。
「あの、聞きたいことがあって。少しだけいいかな?」
「え、ええ……」
 花音はどこか気まずそうに、目を逸らしながら言う。
 仕方ない。元から仲がよかったとは言い難かったのだ。
 それでも、ようやく巡ってきたチャンスを見過ごすわけにはいかなかった。
「昔バレエスクールで一緒だった、三石瑠夏って覚えてる?」
「瑠夏なら、この間電話で少し話したけど……」
「本当? それ、いつのこと?」
「……一ヶ月前くらいに」
 一ヶ月前。
 瑠夏が姿を消したのは、四月だった。
 瑠夏はやっぱり、帰っていたんだ。
 どこを探しても、見つけられなかったのに。
 私に何の連絡もなかったということは、会いたくないということなのだろう。
 でも――

『わたしは昔、一度だけ、ここで生きている人に会ったことがあります』

 前に、かおるさんはそう言った。

『お互いが強く、会いたいと思っていれば』

 ずっと、瑠夏に会う勇気がなかった。
 私にはもう、顔を合わせる資格なんてないと思っていた。
 でも、たとえ瑠夏が私の顔を見たくなかったとしても、どうしても会って、伝えたいことがあった。

「お願いします」
 舞は深く頭を下げた。
「瑠夏に伝えてください。『喫茶ネリネ』で待ってるって」
「やめてよ」
 花音が言った。
「いつも自信満々だったアンタが、頭下げるとかやめてよ」
 私は顔を上げて、思わず笑みをこぼした。
 見た目は大人の女性に成長しているけれど……中身は全然、子どもの頃と変わってない。
「な、なによ」
「ううん。私、自信なんていままで一度も持ったことないよ」
 私の目線の先には、いつも瑠夏がいたから。その先には、もっとすごい人たちがたくさん並んでいた。
 そんな才能にあふれた人たちの背中を、いつも私は必死に追いかけていた。
 自信なんて、これっぽっちもなかった。
「……そう」
 花音はふい、と目をそむけて言った。
「伝えておくわ。それじゃあ」
 そう言って、真っ赤なドレスを翻して出て行った。
 テーブルの上に、赤いハーブティーを半分残して。
「ありがとうございました。またお待ちしています」
 いままで黙って成り行きを見ていたかおるさんが、にっこりとほほ笑んで言った。
 かと思うと、たったいま閉まったばかりの扉を開けて、店の外をキョロキョロと見回す。
 扉の向こうは通路になっていて、階段とトイレ、その向こうにがらんとした空き部屋があるだけだった。
「変ねえ。さっき、人の気配がしたんだけど……」
「えっ、全然気づきませんでした」
「帰っちゃったみたいね。誰だかわからないけど」
 かおるさんは肩をすくめて言ったけれど、本当は誰だか、わかっているみたいだ。
 もしかして、だけれど――その人は、花音が会いたかった人じゃないだろうか。

 舞は扉に手をかけて、振り返った。
「行ってきます」
 毎日ここに来ているおかげで、いつの間にか、ここを本当の家のように思っていた。
 でも、私の本当の家は――
 世界中どこにいても、どれだけ離れていても、私の帰る家は、いつも一つしかなかった。
 私が生まれ育った、家族が待つ、あの家だ。

 タイル張りの壁に、厚みのある白い扉。扉の横には、花の形のランプがつり下げられている。
 この家の玄関を開けるのは、久しぶりだった。
 帰る家はたった一つしかなかったはずなのに、いつからかこの重い扉を開けるのが億劫になっていた。
 いつから――たぶん、十五歳のとき、日本を離れてから、ずっと。
「ただいま」
 扉を開けて、中に入る。
 奥のほうから、声が聞こえてくる。
 電話で誰かと話しながら笑うような、楽しそうな声。
 声のするほう――廊下の突き当たりは、舞の部屋だった。
「ただいま」
 さっきよりも大きな声で、そこにいる母に声をかけた。
 母は私の声に気づかない。
「ねえまーちゃん。この服どうかしら。まーちゃんによく似合うと思うの」
 白いヒラヒラしたレースのワンピースを広げながら、嬉しそうに、踊るように言う。
 母は、いつもそうだった。いつも一人でしゃべっている。舞がそこにいてもいなくてもどちらでもいいように。
 まーちゃんのためなのよ。ワガママ言わないの。遊びたい? ダメよ、今日もレッスンがあるんだから。我慢しなさい、あなたはほかの子と違うのよ。
 そう甘い声で語りかける。
 ――私はほかの子とは違う。
 舞はそう信じて、母の期待に応えようと努力した。自分より上手い子がいたら、それ以上に。妬まれたら、睨み返すくらい、いつも気を張っていた。
 母が買ってくる趣味の合わない服にも、一度も文句を言わなかった。
「ごめんね。お母さん」
 舞は母のほうに歩み寄って言った。
「私、本当はもっとシンプルな服が好きなんだ。向こうではいつもTシャツにGパンなの」
 舞の部屋は、フリルのワンピースやブラウスやスカートであふれ返っていた。
 着る者がいなくなり、床やベッドに散らばった大量の服たち。知らない人が見れば、荒らされたようにしか見えないだろう。
「それからね、最近、アイスクリームとか、甘いジュースも好きになったんだ。一度あの味を知ったらハマっちゃった。できればもう少し早く知りたかったなあ、なんて……」
 言いながら、母の肩を抱きしめる。
「お母さん。いままで大切に育ててくれてありがとう。大好きだよ」
 舞の声は、母には聞こえない。
 けれど――。
「舞……?」
 母がふいに、顔を上げた。
 その目から涙がこぼれ落ちる。
「ねえ、舞。いま、どこにいるの……?」
 そう言って、母は、震える肩で白いワンピースを抱きしめた。

 本当のことは知りたくなかった。
 いいことでないのはわかっていたから。
 でももう、認めざるを得なかった。
 本当の私は、ここにはいない。
 ここではない、ずっと遠い場所で眠っている。
 そう――いなくなったのは、瑠夏じゃなかった。
 私のほうだったのだ。

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