
(十)
「なんで……アンタがここにいるのよ?」
花音は舞の肩を掴んで言った。
「なんでって……?」
突然の豹変ぶりに戸惑いながら言うと、花音ははっとしたように手を離した。
「あっ、ごめんなさい、急に」
「こちらこそ、突然話しかけたからびっくりさせちゃったよね」
舞は苦笑しながら謝った。
十数年ぶりに再会した知り合いに、どういう風に接すればいいのか、わからなかった。
でも、いまはそんなことを気にしている場合じゃない。
ようやく会えたのだ。瑠夏と繋がりのある人に。
「あの、聞きたいことがあって。少しだけいいかな?」
「え、ええ……」
花音はどこか気まずそうに、目を逸らしながら言う。
仕方ない。元から仲がよかったとは言い難かったのだ。
それでも、ようやく巡ってきたチャンスを見過ごすわけにはいかなかった。
「昔バレエスクールで一緒だった、三石瑠夏って覚えてる?」
「瑠夏なら、この間電話で少し話したけど……」
「本当? それ、いつのこと?」
「……一ヶ月前くらいに」
一ヶ月前。
瑠夏が姿を消したのは、四月だった。
瑠夏はやっぱり、帰っていたんだ。
どこを探しても、見つけられなかったのに。
私に何の連絡もなかったということは、会いたくないということなのだろう。
でも――
『わたしは昔、一度だけ、ここで生きている人に会ったことがあります』
前に、かおるさんはそう言った。
『お互いが強く、会いたいと思っていれば』
ずっと、瑠夏に会う勇気がなかった。
私にはもう、顔を合わせる資格なんてないと思っていた。
でも、たとえ瑠夏が私の顔を見たくなかったとしても、どうしても会って、伝えたいことがあった。
「お願いします」
舞は深く頭を下げた。
「瑠夏に伝えてください。『喫茶ネリネ』で待ってるって」
「やめてよ」
花音が言った。
「いつも自信満々だったアンタが、頭下げるとかやめてよ」
私は顔を上げて、思わず笑みをこぼした。
見た目は大人の女性に成長しているけれど……中身は全然、子どもの頃と変わってない。
「な、なによ」
「ううん。私、自信なんていままで一度も持ったことないよ」
私の目線の先には、いつも瑠夏がいたから。その先には、もっとすごい人たちがたくさん並んでいた。
そんな才能にあふれた人たちの背中を、いつも私は必死に追いかけていた。
自信なんて、これっぽっちもなかった。
「……そう」
花音はふい、と目をそむけて言った。
「伝えておくわ。それじゃあ」
そう言って、真っ赤なドレスを翻して出て行った。
テーブルの上に、赤いハーブティーを半分残して。
「ありがとうございました。またお待ちしています」
いままで黙って成り行きを見ていたかおるさんが、にっこりとほほ笑んで言った。
かと思うと、たったいま閉まったばかりの扉を開けて、店の外をキョロキョロと見回す。
扉の向こうは通路になっていて、階段とトイレ、その向こうにがらんとした空き部屋があるだけだった。
「変ねえ。さっき、人の気配がしたんだけど……」
「えっ、全然気づきませんでした」
「帰っちゃったみたいね。誰だかわからないけど」
かおるさんは肩をすくめて言ったけれど、本当は誰だか、わかっているみたいだ。
もしかして、だけれど――その人は、花音が会いたかった人じゃないだろうか。
舞は扉に手をかけて、振り返った。
「行ってきます」
毎日ここに来ているおかげで、いつの間にか、ここを本当の家のように思っていた。
でも、私の本当の家は――
世界中どこにいても、どれだけ離れていても、私の帰る家は、いつも一つしかなかった。
私が生まれ育った、家族が待つ、あの家だ。
タイル張りの壁に、厚みのある白い扉。扉の横には、花の形のランプがつり下げられている。
この家の玄関を開けるのは、久しぶりだった。
帰る家はたった一つしかなかったはずなのに、いつからかこの重い扉を開けるのが億劫になっていた。
いつから――たぶん、十五歳のとき、日本を離れてから、ずっと。
「ただいま」
扉を開けて、中に入る。
奥のほうから、声が聞こえてくる。
電話で誰かと話しながら笑うような、楽しそうな声。
声のするほう――廊下の突き当たりは、舞の部屋だった。
「ただいま」
さっきよりも大きな声で、そこにいる母に声をかけた。
母は私の声に気づかない。
「ねえまーちゃん。この服どうかしら。まーちゃんによく似合うと思うの」
白いヒラヒラしたレースのワンピースを広げながら、嬉しそうに、踊るように言う。
母は、いつもそうだった。いつも一人でしゃべっている。舞がそこにいてもいなくてもどちらでもいいように。
まーちゃんのためなのよ。ワガママ言わないの。遊びたい? ダメよ、今日もレッスンがあるんだから。我慢しなさい、あなたはほかの子と違うのよ。
そう甘い声で語りかける。
――私はほかの子とは違う。
舞はそう信じて、母の期待に応えようと努力した。自分より上手い子がいたら、それ以上に。妬まれたら、睨み返すくらい、いつも気を張っていた。
母が買ってくる趣味の合わない服にも、一度も文句を言わなかった。
「ごめんね。お母さん」
舞は母のほうに歩み寄って言った。
「私、本当はもっとシンプルな服が好きなんだ。向こうではいつもTシャツにGパンなの」
舞の部屋は、フリルのワンピースやブラウスやスカートであふれ返っていた。
着る者がいなくなり、床やベッドに散らばった大量の服たち。知らない人が見れば、荒らされたようにしか見えないだろう。
「それからね、最近、アイスクリームとか、甘いジュースも好きになったんだ。一度あの味を知ったらハマっちゃった。できればもう少し早く知りたかったなあ、なんて……」
言いながら、母の肩を抱きしめる。
「お母さん。いままで大切に育ててくれてありがとう。大好きだよ」
舞の声は、母には聞こえない。
けれど――。
「舞……?」
母がふいに、顔を上げた。
その目から涙がこぼれ落ちる。
「ねえ、舞。いま、どこにいるの……?」
そう言って、母は、震える肩で白いワンピースを抱きしめた。
本当のことは知りたくなかった。
いいことでないのはわかっていたから。
でももう、認めざるを得なかった。
本当の私は、ここにはいない。
ここではない、ずっと遠い場所で眠っている。
そう――いなくなったのは、瑠夏じゃなかった。
私のほうだったのだ。