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『あなたのいるところ』第1話

2025年10月31日 投稿
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(一)

 天井の蛍光灯が、カチ、カチ、とまばたきをする。
 先月買い換えたばかりなのに、また切れかかっている。配線のほうに問題があるのだろう。近いうちに業者を呼んで見てもらわなければ。
 やることがまた増えた、と平川菫は小さくため息を吐いた。
「奥に汚れが溜まっています。少し削りますね」
 仰向けになっている患者に声をかけて、エアータービンにバーを取り付ける。ユニットの下部分についているフットスイッチを踏むと、圧縮空気で先端のダイヤモンドバーが回転して注水される。歯のエナメル質や詰め物を削るときに使う機械だ。キーン、と甲高い音が診療室内に響く。患者が目を閉じたまま顔をしかめ、口を閉じかけた。
「危ないので動かないで」
 最後まで言い終える前に、補助についている歯科衛生士の日向子が笑顔で菫の口を封じる。
「大丈夫です。すぐですから。楽にしてくださいねー」
 日向子の声に、患者の表情が目をつむっていても和らぐのがわかった。
 歯医者は接客業だ、と学生時代の研修のときに、嫌というほど教わった。技術はもちろん必要だが、この歯医者飽和時代、経営がうまくいかず潰れていくところも少なくない。
 ここ『平川歯科医院』は、まったくの新規という患者はあまりおらず、昔馴染みの患者によって支えられている。平均年齢六十代。常連患者の子が通い、孫が通う……というように、昔ながらの町歯医者として、家系図のごとく脈々と受け継がれている。
 それは、院長と副院長が長年をかけて築いてきた関係だった。二人は一年前、六十五歳になったのを機に現役を引退し、いまは、平川医院の医師は菫一人だけ。
 つまり、いままで三人でやっていた仕事量を、いまは一人でこなしている状態だ。
 いつ倒れても不思議じゃない忙しさから、笑顔を浮かべる余裕もない。
ネットの口コミでは――
『先生の愛想がない』
『怖い』
『言い方がきつくて子どもが泣きました』
 そんなことを書かれている。
 ……いや、忙しさを言い訳にしてはいけない。もともと人付き合いが苦手な上に、仕事中は無意識に力が入ってしまい、愛想という概念が頭から抜け落ちてしまうのだった。
 反対に、衛生士の中でいちばん勤務歴の長い日向子をはじめ、衛生士や受付の子の評判はというと――
『かわいい』
『若い』
『癒されました』
 無愛想な女医師への反動か、こちらの評判はすこぶるいい。
 この医院はもはや彼女たちのおかげで成り立っているのではないか、とすら思えてくる。
 治療を終えて、器具をトレーの上に置いた。
「お薬を交換したので、数日は違和感があるかもしれません。滝沢さん、注意事項を説明しておいて」
 菫は患者が起き上がる前に、日向子に声をかけて立ち上がった。
「わかりました」
 日向子が笑顔でうなずく。
 愛想をよくする、という就職して以来の課題は、当面クリアできそうにない。

 午前の診療が終わり、院長室の椅子に座って背を預けた。
 座った瞬間、全身の力が抜け落ちるほど疲れが押し寄せてくる。
 平川歯科医院は医師一人、衛生士四人、受付一人の小さな歯科医院だ。
 もとは先代の先代、つまり夫の祖父が開業し、義父が引き継いだ形である。
 開業以来五十年以上、一度も改装工事などしていない建物は、はっきり言ってオンボロだった。
 ところどころ剥がれかけている黄緑色のモルタルの外壁、重たいガラス扉を開けると小さな玄関があり、茶色い革張のソファと黄ばんだ壁に囲まれた待合室が出迎える。隣が診療室になっていて、ついたてで仕切られた治療台が三つと、レントゲン室がある。その奥が院長室——かたちだけとはいえ、この院内で唯一、菫が気を抜ける場所だ。
 朝コンビニで買ったおにぎりのビニールを破いて食べようとしたとき、ドアがノックされた。
「菫先生、副院長先生がお見えです」
 日向子が顔を覗かせて言った。
 衛生士の休憩室は、裏口の隣。来客の対応は、基本的に彼女たちに任せている。
「すぐ行くわ」
 菫はまだ一口も食べていないおにぎりを置いて立ち上がった。
 裏口の玄関に行くと、副院長こと義母が、笑顔で手をひらひらと振っている。
「菫さん、休憩中悪いわねえ。これ、差し入れどうぞ。助手さんたちにも配っといたからね」
 とシュークリームが入った包みを渡してくる。
「ありがとうございます」
 受け取った時点で、嫌な予感はしていた。
「それでね、お友達のお孫さんの治療をお願いしたいんだけど、空いてるところあるかしら?」
 ――やっぱり。
 義母が差し入れを持ってくるときは、たいていこういう無理な予約をねじ込もうとするときだ。正直に言えば、すでに二週間分は予約が埋まっていて、余分に入れられる枠はない。
「二人なんだけど、お願いできるわよね?」
 断れないのをわかっていて、念を押してくる。
「……少しお待たせすることになるかもしれませんが」
「ほんと? よかったあー。じゃあ明日の午後、お願いね」
 それだけでは終わらない。
「診療室の電気、切れかけてるじゃないの。あれじゃあ細かいところが見えづらいでしょう。あと週刊誌、先週のがまだ残ってたわよ」
 現役を引退しているとはいえ、さすがは長年この医院を支えてきただけあって、細かいところにも目が届く。こうやってあれこれ口出しすることで、副院長としての立場を保っておきたいのだろう。
 それから、と、ここがいちばん重要だというように、間を空けて言う。
「口コミ、また書かれてたわよ。いまはあなただけなんだから、もう少し愛想よくしてもらわないと。お友達のお孫さん、泣かせないでちょうだいね?」
 たっぷり嫌味を残し、解放されたのは一時間後。休憩時間はあと三十分もない。
 ようやくありつけたおにぎりをかじりながら、義母の言葉を思い出す。
『いまはあなただけなんだから』
 嫌味のついでみたいに言われた言葉だが、その通りだった。
 夫の祖父から父へと受け継がれた歯科医院。小さいけれど、町の人たちに愛されている、いい歯医者だと思う。いい加減、改装したほうがいいとは思うけれど。
 義父母は、一人息子の嫁である菫に後を継がせるつもりでいる。
 待っているのだ。ここで。
 十五年前にいなくなった息子の帰りを、ずっと待ち続けている。
 ――彼らも、そして、私も。
 その可能性が限りなく薄いことを知りながら、いつかひょっこり帰ってくるのではないかと、思ってしまうのだ。

 菫と夫——平川良平との結婚生活は、たったの二年だった。
 東京の大学院を卒業後、菫は平川歯科医院に就職した。
 大手のクリニックや大学病院の紹介もあったが、人付き合いが苦手なのを理由に、なるべく人数が少ない職場を希望していた。歯医者が接客業だというなら、せめて職場の人間関係くらいは最小限に留めたかったのだ。
 平川家には二人、息子がいる。長男の浩介は都内の大学で研究をしており、次男の良平は、歯学部に進学させたがっていた両親の思いとは裏腹に、昔から勉強嫌いだった。
 この医院も自分たちの代で終わりか、と諦めていたとき、大学院を卒業したばかりの菫が医師として入ってきた。
 歓迎会という名目で初めて良平と顔を合わせたときの、義父母の輝かしい顔を覚えている。いま思えばあれは、ほとんどお見合いみたいなものだった。
 知り合って三か月で結婚を前提に交際をスタートし、半年後に入籍した。結婚式を東京の老舗のホテルで挙げ、新婚旅行は義父母がお祝いだと言って旅費を半分負担してくれ、一週間ハワイで過ごした。流れ作業みたいな結婚だった。
 何もかもが慌ただしかったけれど、菫はあのときがいちばん、幸せだった。
 人付き合いが苦手な自分がこんな幸せに巡り合えるなんて、思ってもみなかったのだ。
 ハワイを満喫した帰りの飛行機で、良平は菫を見て、言った。
『なんか成り行き任せみたいになっちゃったけど、俺は菫と一緒になれてよかったと思ってるよ』
『うん。私も』
 機内は冷房が効きすぎていて、少し寒かった。二人で一つの毛布をかぶって、モニターで一緒に白黒の無声映画を観た。後半はほとんど観ずに眠ってしまったけれど、空の上で、肩を寄せ合い、手を繋いで眠ったあの夜は、いまでも宝物のように菫の中で煌めいていた。
 二〇一一年三月十一日――
 その日、菫はいつものように平川歯科医院で治療をしていた。義父と、義母、いまとメンバーが違う衛生士の子たちと一緒に。ユニットは三つとも埋まっていた。待合室に患者が数人、受付の子が一人いた。
 地面がぐらりと揺れて、とっさにユニットの端を掴んだ。
 地震だ。かなり大きい。診療室はたちまち大騒ぎになった。
 落ち着いてください! 落ち着いて! あたふたと動き回りながら、義母が患者に声をかけていた。義父は床に散らばった器具を拾い集めていた。
 菫はとっさに待合室に行き、テレビを見て、愕然とした。
 現実とは思えないような巨大な津波が、街に押し寄せ、人や建物や車、あらゆるものを飲み込んでいった。建物を根こそぎなぎ倒し、車や家が、あり得ない場所に浮かんでいた。必死に逃げ惑う人々、建物の上に取り残され助けを呼ぶ人々。
 音声は消してあり、字幕が流れていく。
 画面の上のところに、東北の沿岸部、と書いてあった。
 一気に血の気が引いた。
 医療機器メーカーの営業をしていた良平は、その頃、仙台を中心に宮城を担当しており、月の半分は出張に行っていた。
 その日も仙台に行く、と早朝から出かけて行った。仙台のどこかは聞いていなかった。
 菫はすぐにロッカーに飛んでいき、携帯を開いた。履歴から良平の番号を選んで電話をかける。
 繋がらない。ツー、ツー、ツー、と無機質な呼び出し音が焦りを募らせた。
 良平。良平。何度もその名前を呼んだ。
 良平は帰ってこなかった。十五年経ったいまも、遺体は発見されず、行方不明者のままになっている。
 菫は地震が怖い。海も怖い。あの巨大地震を実際に体験したわけではないのに、体の深いところまで刻まれたように、震度一のほんの少しの揺れでも足がすくんで動けなくなる。
 新婚旅行で泳いだ、津波など起こりそうもなさそうなエメラルドブルーに輝く美しい海が、菫が最後に見た海だった。

 休憩の終わりを告げるアラームが鳴った。
 午後の診療を確認するために受付カウンターに行くと、受付の太田美紀と鉢合わせた。
「あ、菫先生。新規の患者さんです。もうすぐ一時半からの白石さんがいらっしゃるはずですなんですけど……」
 美紀は言いながら、待合室の男性に目配せをした。
 革張りのソファに、四十代半ばくらいの男性が一人、座っている。義母に取り換えるよう注意された、先週号の週刊誌を読んでいる。
「新規? 予約は入っていなかったわよね?」
「はい、飛び込みです。無理だったらいいって言うんですけど、白石さんまだ来てないし……」
 飛び込みとは、予約をしないで突然診察に来ることだ。頻度は少ないが、突然歯が痛みだした、とか、ほかの歯医者がどこも空いていないとかで、たまにこういうことはある。
 そういうときに断ってしまうとその患者は行き場をなくしてしまう。なので快く受け入れるべし、というのが義父母のモットーだった。菫としては、予約が入っているほかの患者の治療時間を押すので断りたいのが本音だったが、方針には逆らえない。
 白石は七十代の男性患者で、いつも午後いちばんに予約を入れるが、たびたび遅れてくる。一人余分に入れるくらいはできるだろう、と判断した。
「じゃあ一番に案内して」
「はぁい」
 美紀はカウンターに戻り、男性に初診用の問診票を渡した。
 男性がユニットに座ったのを見て、ゴム手袋をはめる。
「こんにちは。医師の平川です。よろしくお願いします」
 決まりである挨拶をすると、男性は「どうも」と頭を下げた。
 補助に入った日向子も続いて「よろしくお願いします」と言う。
 美紀から受け取った問診票を見る。
『遠野慎太郎 50歳 男性』
 五十歳にしては、少し若い印象を受けた。
 症状の欄には、昨日から右下の奥歯が痛むと書いてある。
「倒しますね」
 ボタンを押してユニットを後ろに倒す。
「お口を開けてください」
 仰向けになった遠野が、はい、と言って口を開いた。
 ミラーを右下の奥に向ける。
 その瞬間――菫は糸を引っ掛けられたように、患者の歯に釘付けになった。
「……滝沢さん。ライト下げてくれる」
「はい」
 日向子が上から照らしているライトの位置を少しだけ下にずらす。
 口の中が奥まで明るく照らされ、はっきりと見える。

 ――まさか。

「ここは痛みますか」
 動揺を隠し、冷静を装って尋ねた。
「はい、少し……」
 問診票に『喫煙習慣あり』と書いてある。ヤニ汚れか、歯と歯の隙間が黄色に変色している。
 右下の奥が少し黒ずんでいる。虫歯だ。

 ――あり得ない。

 頭の中で必死に否定しようとする。
 あの人はたばこを吸わなかった。歯医者の息子としてきつく言い聞かされてきたからだ。
 目の前にいる遠野という男性は、良平とは似ても似つかなかった。
 良平は男性にしては小柄なほうで、目はくっきりとした二重だった。
 遠野はガタイがよく、一重で、しかも垂れ目だ。声も、話し方も違う。
 どこもかしこも違う。明らかに別人だ。
 でも、口の中が、良平と同じだった。
 菫は良平の口をよく知っている。歯の形を隅々まで知っている。何度もこの目で見て、舌の先の感触で確かめて、はっきりと記憶している。
 そんなはずはない。そう否定する一方で、この男は良平だと、訴える自分がいる。
「遠野さん、お聞きしたいことがあるんですが……」
 菫は遠野の口の中を見ながら言った。
 遠野が閉じていた目を薄く開いて、
「はい」
 と菫を見上げて言った。

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