(六)
遠野の自宅まで行ったのに、結局何もなかった。というより、何もできなかった。
車から子供連れの三人家族が降りて、家の中に入っていくほんの短い間、菫はその光景から目が離せなかった。
――私が欲しかったもの。そして、どんなに求めても、もう手に入らないもの。
遠野と良平にどんな繋がりがあるのか。
遠野の口内を見たときの既視感も、一ヶ月が経ちだんだんと薄れている。
もう一度、遠野がここに来たら今度こそ聞いてみようと思った。
けれどどこかで、彼はもう二度と菫の前に現れないような気もしていた。それならきっと、そのほうがいいのだろう。
元々、自分には関係のない人だったのだから。
夕方5時に、良平の後輩の和田がやって来た。空いているいちばん奥のユニットに案内する。
「詰め物が少し欠けていますね。修復しておきますね」
「お願いします」
和田は仰向けの状態でうなずいた。
和田は医療機器のメンテナンスにやって来るほかに、半年に一度は検診のため平川歯科医院に通っている。
奥歯の詰め物が欠けて穴が空いている部分をタービンできれいに洗浄し、炎症止めの薬を塗る。スパチュラ(長い柄のついたステンレス製の器具)で被せる薬を練り、ふたをして固める。
「和田さん、少しお疲れのようですね」
ユニットを起こしてから、気になっていたことを尋ねた。和田は恥ずかしそうに苦笑する。
「いやあ、菫先生には見抜かれちゃいますね」
「いつもより奥歯に歯垢が残っていましたので」
口にはしなかったが、以前より唾液の分泌量が減っている。酸による歯の侵食(酸蝕歯)も見られる。これは炭酸飲料やアルコールの過剰摂取によって起こる症状だ。
ストレスが溜まっているのだろうか。いや、単なる息抜きとして増えることもあるかもしれない。
他人のプライベートに不要に口を出すのは躊躇われて、その言葉は飲み込んだ。
「下の子はまだ手がかかりますしね。自分のことはつい疎かになってしまいます」
「そうでしたか」
「菫先生」
和田が顔を上げて言った。
「平川先輩……ご主人にいまでも会いたいと思いますか?」
「え?」
唐突な質問に、一瞬言葉に詰まった。けれどすぐに、
「ええ。会いたいわ、もちろん」
と続けた。
「どうしてそんなことを聞くんですか」
——そんな当たり前のことを。
和田は柔らかい笑みを浮かべる。
「いえ、深い意味はありません。ただ、いまもそう思ってるのか、ちょっと気になっただけです」
ありがとうございました、そう言って和田は診療室を出て行った。
「菫先生」
和田が出て行ってから、補助についていた日向子が小声で話しかけてきた。
「さっきの質問、なんですか? あの人、菫先生に気があるんじゃありません?」
「まさか」
菫は表情を変えずに言った。
「夫の後輩よ。そんなことあるわけないでしょう」
「でも……」
何か言いたそうな日向子を嗜める。
「世間話よ、ただの」
——世間話? 本当にそうだろうか。
これまでに何度となく顔を合わせてきたけれど、和田があんなことを言ってきたことなんて、この十五年間一度もなかった。
どうして急にそんなことを?
このときはまだ、取り立てて気にすることもないような小さな疑問だった。
しかしその翌日、和田は突然、姿を消したのだった。
木曜日の昼間。休診日の朝は部屋中を掃除することにしている。一時間ほどかけて掃除を終えたところで、チャイムが鳴った。
「お忙しいところ突然すみません」
和田の妻の愛美が、深々と頭を下げた。
「今日は休みなので。どうぞ上がってください」
和田は四十歳だが、妻は三十二歳とまだ若いはずだった。しかし見た目は頬がこけて目が窪んでおり、寝食もまともにできていないのがわかった。
「ご主人はまだ帰ってこられないのでしょうか」
菫はテーブルに紅茶を用意して、向かいに座る愛美に尋ねた。
愛美はお礼を言ってティーカップに手を添えつつ口を開く。
「ええ……捜索願いは出したんですが、まだ何も。もう一週間です。こんなこといままでなかったのに……」
和田がいなくなったのは、二週間前の木曜日。仕事に行ったきり、帰ってかなかったという。
その前日に平川歯科医院に来院していたことがわかり、何か知っていることはないかと尋ねてきたのだ。
「ご主人がうちの医院にこられたのは、11月5日の午後5時です。予約をされていましたし、予定表でも変更はなかったので間違いありません」
その日は夜、8時頃に帰って来て家で夕飯を食べたという。
「何かそのとき、変わったことはなかったでしょうか」
「変わったことと言いますか……」
必死に懇願するような愛美の姿に戸惑いながら、気になることがあったと打ち明けた。
「失礼ですが、ご主人は最近、飲酒量が増えたということはありませんか。半年前に比べて、その傾向が見られました。もしかしたら疲れやストレスを感じていられたのではないでしょうか」
愛美はハッとしたように目を見開いて、小さくうなずいた。
「たしかに前に比べて、羽振りがよくなったような気がします。毎日とは言いませんが、週末は決まって夜遅くまで飲んできて、朝帰りのことも……それにこの間突然、旅行に行こうと言い出したんです。海外旅行なんて、子供が産まれてからは行ってなかったのに」
たしかに妙だった。
突然金遣いが荒くなったのは、大金が入ってきたからだろうか。飲酒量が多くなったのも納得できる。
それに海外旅行となると、すぐ使いたがっているようにも思える。やましいお金なのではないかと疑ってしまう。
そんなことはわざわざ言わなくても、愛美も心配しているだろう。
「それから……」
言いかけて口をつぐんだ。これは自分の問題で、今回のことは関係ないように思えたからだ。
それに――
『菫先生に気があるんじゃありません?』
日向子の気のせいだとは思っているが、そうとられてしまうかもしれない。
「何でしょう」
「すみません、大したことではないんです」
「言ってください。何でもいいから手がかりがほしいんです」
「私の夫は十五年前、震災で行方不明になっています。その夫に、まだ会いたいか、と聞かれたんです」
「先生のご主人が、行方不明……?」
「聞いていませんでしたか」
「はい、何も。たしかに、どうしてそんなことを聞いたんでしょうか。まるでその気になれば会えるみたいな……自分の夫ながら、少し失礼な気もします」
と、ムッとしたように言う。
愛美は良平のことを知らなかったようだ。もちろん、行方不明になっていたことも。
和田が結婚したのは、良平がいなくなった後だ。それに十五年前、愛美はまだ学生だ。知らないのは当然だった。
でも、可愛がっていた後輩夫婦の話題にも出ないのか、と少し寂しさも覚えた。十五年という月日は、そんな過去すら薄れさせる長い時間なのだ。
「何か事件に巻き込まれてなければいいんですけど……私も子供も心配しているんです」
愛美は涙ぐみながら言った。
ムッとしたり涙ぐんだり、素直な人だ。感情を滅多に表に出さない菫には、少し羨ましく思えるほどに。
何度もお礼を言い、何かわかったら連絡ください、と言って愛美は帰っていった。
愛美の言葉が引っかかっていた。
『まるでその気になれば会えるみたいな……』
そんなはずはない。
良平は十五年前にいなくなったのだから。
もし仮に和田が居場所を知っているのだとしたら、黙っている理由が思い当たらない。
それとも、口止めされているとか……?
まさか。考えすぎだと思い直す。
小さなことばかり気にしているから、意味のないことにも何か意味があるのではないかとつい勘繰ってしまうのだ。
早く和田の居場所がわかればいいと思った。
いなくなった人ではない。ついこの間まで、たしかにいた人なのだから。
その夜、携帯に電話がかかってきた。
画面を見た瞬間、菫は眉をひそめた。
――公衆電話……?
通話マークを押す。
「もしもし」
名乗らずにそう言った。
しかし返事はなかった。
「あの……?」
何度か呼びかけてみたが返事はなく、やがてプツリと通話が切れた。
――なんなの。
イタズラだろうか。嫌がらせ?
なんだか寒気がした。
そしてこのとき、菫ははっきりと確信した。
わざわざ名古屋からうちの歯科医院にやって来た遠野という男。
行方不明になった和田。
そして無言電話……。
――私のまわりで何かが起こっている。
全部関係性のない偶然ならいい。でも偶然にしては不可解なことが起こりすぎている。
何かが起こっているのはわかるのに、何が起こっているのかわからない。
それが不気味だった。
