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『あなたのいるところ』第7話

2026年1月23日 投稿
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(七)

 プルルルル、プルルルル、と何度か呼び出し音が続いた後、留守番電話に接続された。
 業務上の連絡もあるので会社にも電話して尋ねてみたが、やはり無断欠勤が続いているという。
 何か連絡があれば教えてください、と言われてしまった。
 和田が姿を消してから一週間。家族も心配しているのに、いったいどこで何をしているのだろう。
このまま二度と帰って来ないのではないか……。
 大切な人が突然いなくなって、残された者の気持ちは痛いほどわかる。明日になれば帰ってくるかもしれない、次の日もその次の日も、何年も待ち続け、心が疲弊していく。だからといって、日常を捨てて探し回ることもできない。自分には守らなければならないスタッフたちがいるのだ。
 菫には何もできなかった。ただ待つことしか。
 愛美とは知り合ったばかりだが、同じ思いをする人が増えてほしくないと願うばかりだった。
 しかしその願いは、無残な結果として菫のもとに届くこととなった。

 和田の行方がわかったのは、行方不明になってから一ヶ月が経った頃だった。
 午後の診療が終わり、院長室で書類の整理をしていたとき、警察が医院を訪ねてきたのだ。それも二人連れの刑事だ。
 警察が病院や歯医者に患者の身元を尋ねに来ることはたまにあることだというが、小さな歯科医院が事件に関わることなどそうあることではない。
 対応したスタッフが緊張を滲ませながら菫に取り継いだ。
 警察が関わるようなことなどうちにはない、と言いたかったが、一つだけあるとすれば、やはり和田のことだろうと予想がついた。
 スタッフに休憩室で待つように言い、刑事たちを待合室に案内した。
 刑事が座っているというだけで、慣れ親しんでいるはずの場所が一気に緊迫した空気に包まれる。
「和田直人さんをご存知ですね」
 と中年の刑事が言った。
「和田さんは医療機器のメンテナンスで定期的にこちらを訪問していたと聞きました。先月は患者としても来院されていたようですね」
「ええ。和田さんに何かあったんですか」
 ざらりとした不安が過ぎる。
 何か事件に巻き込まれたのだろうか。
 一ヶ月も行方をくらまして、何もないということはもはやあり得ない。
「一ヶ月前から和田さんが行方不明になっていたことはご存知ですね」
 中年刑事がもったいぶった言い方をする。
「聞いています。和田さんが見つかったのですか」
「ええ。見つかりました」
 刑事は認めるが、どこで見つかったとは言わない。質問以外、余計なことは言わないことになっているのだろう。
「どこにいらしたんですか」
 痺れを切らして、質問を重ねた。
 刑事は表情を変えずに答えた。
「足立区の廃病院で見つかりました。亡くなっているところをね」
「亡くなっていた……?」
 何か事件に巻き込まれたのだろうか。じつは家族には言えない借金を抱えていたとか、会社の金を横領したとか、誰かに追われているとか、身を隠さなければならない何かがあったのではないか。
いろいろと悪い想像はしていたが、最悪の結果になってしまった。
 今頃愛美と子供たちはどうしているだろう。考えるだけで胸が痛む。
「どうして、亡くなったんですか」
「どうも被害者は暴行を受けたようでしてね」
「暴行……」
「何者かと争った形跡が体に残っていました。我々はその喧嘩の相手を探しています。心当たりはありませんか」
「喧嘩ですか」
 温厚で家族思いな和田と、暴行や喧嘩という言葉がすぐには結びつかなかった。
「いまのところ、聞き込みではそうした情報は得られていません。とくにトラブルのようなこともなかったようですし」
「プライベートで付き合いがあったわけではないので……ここ最近、妙に羽振りがよかったという話は聞きましたが」
「それは奥様からも聞いています。念のため、よく行っていた飲み屋なんかも当たっているのですが、これといって目ぼしい情報は得られなくてですね」
 仕事上の関係者として、刑事はスタッフ一人一人に話を聞いていたが、院長である菫が知らないのだから、スタッフが何か知っているとは思えなかった。
 案の定目新しい質問は引き出せなかったようで、刑事たちは一時間ほどで引き上げていった。
 スタッフたちは殺人事件の取調べを受けるという異例の事態に、戸惑いの表情を浮かべていた。
「和田さん、いい人だったのに……」
 先月和田が来院したときは眉をひそめていた日向子だったが、肩を落としてつぶやいた。
「そうね……」
 特別親しかったわけではないとはいえ、何度も顔を合わせていた相手、一ヶ月前にここで話をした相手が、亡くなった。
 いったい和田はどんな理由で命を落とすことになったのだろう。
 愛美や子供たちはこれからどうなるのだろう。
 そんな思いが頭の中を巡った。和田が帰ってくることはなくなったが、せめて一日でも早く事件が解決することを願った。

 和田の葬儀が終わった数日後、愛美から電話があった。
 会って話したいことがあるというので、待ち合わせた喫茶店に向かった。
「お忙しいところ、すみません」
 席に着くなり、先に座って待っていた愛美は恐縮するように頭を下げた。
「いえ、今日は休みなので」
 一ヶ月前に初めて顔を合わせたときより、頬がこけ、疲れているのが伺えた。無理もない、と菫は痛ましい気持ちで愛美を見つめる。
 子供がいないところで話したいというので、休診日の木曜日にしたのだ。上の子は小学校、下の子は幼稚園に行っている時間だ。
「それで、気になることというのは……?」
 電話で、愛美は気になることがあると言っていた。その声のただならぬ様子に、何があったのだろうと身構えてしまう。
「夫のスマホを見たんです。警察で確認するように言われて」
 仕事ではなく、プライベートで使っていたスマホだという。警察に押収されていて、夫の物とはいえすぐには返してもらえないようだ。
「スケジュール帳に、メモが書いてあったんです——『遠野』と。それも一度ではなく、何度も」
「え……?」
「菫さん、その方をご存じですか?」
 尋ねられて、ドキリとした。
 どうして、いまその名前が出てくるのか。
「ええ……患者さんで、お一人いらっしゃいましたが」
 それ以上は言わなかった、というより、言えなかった。
 患者の情報は関係者以外に口外してはいけないと法的に決められている。名前や所在地だけでなく、病歴や診断名、いつ来院したのかも。
「仕事の予定はすべての携帯に書いてありました。だからプライベートのお知り合いかと思うのですが、心当たりが何もなくて……」
 愛美がうつむいて言う。
 その男を知っている、と言ってしまいたかった。
 でも、いったい何を知っているというのだろう。
 どこにでもいそうな中肉中背の平凡な顔。
 彼について知っていることといえば、全部保険証やカルテに書いてあることだけだった。
 自分には無関係だと忘れようとしても、奇妙な偶然が次々と起こってその顔が頭にちらつく。
 いい加減、答えを教えてほしかった。
 あの男が自分の前に現れたわけを。
「こちらでも調べてみます」
 菫は、そう言うのが精いっぱいだった。

 翌日、仕事が終わってから、遠野の問診票に記されていた番号に電話をかけた。

『この番号は現在使われておりません』

 ツー、ツー、ツー、と無機質な音に、携帯を投げつけたくなった。
 ——嘘の番号だった。
 いったいなんなんだ、あの男は。
 何がしたいのかさっぱりわからない。
 そのとき、今度は電話がかかってきた。
 公衆電話。
 また無言電話か、とため息を吐きつつ、念のため本当に用があるのかもしれないので、通話ボタンを押した。
 やはり、相手は何も言わない。たぶん前と同じ相手だろう。
 普段の菫なら、何も言わずにそのまま通話を切っていたはずだった。
 しかしいまは無性に腹が立っていた。
「もしもし。何の用でしょうか」
 電話をかけてきて無言なんて失礼なことをしてるんだから、こっちだって言いたいことを言ってやろうじゃないの。
「前もかけてきましたよね。用件があるなら言ってください。そしてもう二度とかけてこないで——」
『あの……』
 驚いたのは、無言の相手が驚いたからだけではなかった。
『うちのことを調べてるんですか?』
 そう言ったのが、まだ幼い少年の声だったからだ。
「え……?」
『いきなり電話してごめんなさい。ぼく、遠野稔といいます。西野のおばちゃんに連絡先聞いて電話しました』
 声のわりにしっかりした口調だった。
「あ、ああ、あの公園の……」
 むしろ大人のほうがしどろもどろだ。
 遠野——また遠野だ——しかも、今度は息子のほうときた。
『ぼくも、知りたいんです。ぼくの家族のこと』
 と電話の向こうで少年は言った。

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