(十七)
「本当はね、最初にあの子が送ってきた写真を見た時に気づいていたの」
妙にピントの合っていない写真だった。
家の前で撮られたどこにでもあるような家族写真。しかし、わざとピントをずらしたようなその写真に、遠野夫人は違和感を覚えた。
「十年以上、息子には会っていなかった。奥さんが病気がちでそばを離れられない状態だと言っていた。写真の仕事も辞めて、別の仕事を始めたと」
それきり、親子の連絡は途絶えていた。
それでも、どこかで生きていてくれればと願っていた。そしてその願いが届いたかのような出来事が起こった。
二年前、慎一郎の息子と名乗る少年から手紙が届いたのだ。
『はじめまして。
ぼくは遠野稔といいます。
ぼくのお父さんの名前は遠野慎一郎です』
初めて名前を知った。初めて顔を見た。
もう見ることも叶わないのだと諦めていた孫の存在に、老いた夫婦は歓喜した。
「あの子の話を聞くのは楽しかったわ。つたない文字から、目を輝かせて話をする男の子のことを想像した。学校でのことや家のことを話してくれるあの子を通して、父親になった息子を見ているようだった」
遠野夫人が趣味で描いている絵葉書を送ると、喜んでくれた。真似して、水彩絵の具で朝顔の絵を描いて送ってくれたこともあった。やりとりを重ねるうちに、まだ幼さの残る男の子の成長が楽しみになっていった。
けれどどうしても、最初に覚えた違和感を拭い去ることはできなかった。
ピントの合わない家族写真。
そこに写っているのは、本当に息子なのだろうか。
両親が写っている写真はその一枚しかないと稔は手紙に書いていた。
信じられなかった。あれほど写真を撮るのが好きで仕事にまでした息子が、ぱったりと写真を撮らなくなるとは思えなかった。
ピンボケした息子の笑顔にも見過ごせない違和感があった。
笑顔でピースをしている孫の顔は、息子に少しも似ていなかった。
「小百合さんがよその人と作った子ではないかと、思っていたの。もしそうなら、会わせたくないというのも、私たちのことを隠しているのも納得できた。どういう事情があるのかわからないけれど、慎一郎があの子を本当の息子として育てているのなら、私たちは何も口出しすることはないと思ったの。それがまさか、息子が別人だなんて……」
遠野夫人は声を詰まらせた。
「あんたは、どこの誰かもわからない奴が、息子に成り代わっているというのか」
それまで押し黙って話を聞いていた遠野氏が、口を開いた。
菫はうなずくのを躊躇って、良介を見た。
良介は目を合わせて、小さくうなずいた。
証拠はいまのところ何もない。だが、自分の中にある記憶がそうだと告げている。
本人を問い詰めても、何を馬鹿なことと突き返されるのはわかっていた。
だから、ここまで来たのだ。逃れられようのない事実を突き止めるために。
「それをこれから病院に行って、直接確かめたいと思っています」
平日の病院は混雑していた。待合の椅子は全て埋まっていて、モニターに表示された番号に沿って患者が呼ばれて診察室へと入っていく。
菫たちは総合受付を通り過ぎ、口腔外科の受付に向かった。
かつて、少年だった頃の遠野慎一郎が通っていた場所。当時いたスタッフは、おそらくほとんど残ってないないだろう。
「三十六年前のカルテですか……?」
受付の女性は困惑するように問い返した。
無理もない。病院の特異規定で保存期間内とはいえ、警察関係以外でそんな問い合わせは滅多にないだろうから。
ここにいるのは七十代の老夫婦と、歯科医と法歯学者。つくづく妙な組み合わせだと思う。
けれどここまで来たら、あと一歩だ。
遠野慎一郎——もう少しで、あなたの正体を突き止めることができる。
「息子の行方を知るのに必要なんです。どうか、お願いします」
頭を下げたのは遠野氏だった。
受付の女性は戸惑いの表情を浮かべたまま、
「少々お待ちください」
と言って奥の部屋へと姿を消した。
待合の椅子が空き、遠野夫妻に座ってもらい菫と良介は壁際に立って待つことにした。
「もし、本当に良平が遠野慎一郎として生きていたら、どうしますか」
菫は尋ねた。
「言っていなかったことがあります」
と良介は質問には答えず、かしこまった口調で言った。
「僕は両親の不正を知ったとき、真っ先に良平に相談した。医者ではなくても、医療関係者の一人として真っ当な意見を求めてね」
でも、と良介は顔を歪ませた。
「あいつは、いいじゃないか、と言った。結局、怪我は治ったんだろう。それならわざわざ大事にする必要はない、と」
義父が起こした医療ミス。命に関わることではなかった。けれど、患者はそのミスによる怪我で、完治まで半年間の通院を余儀なくされた。
義父母は自分のミスを認めるどころか、揉み消したのだ。
『開院以来無事故』の看板を傷つけたくないためだけに。
医療関係者として許されない行為をしたのだ。
「その答えを聞いて、あいつも両親と同類だと確信した。人の傷を何とも思わない。もう家族とも思っていないよ」
それが、答えだった。
自分は、と考える。
良平のことを知ろうとするほど、自分が夫のことを何も知らなかったのだと思い知らされる。いい部分しか知ろうとしなかった。たとえ一緒に暮らしていても、すべてを知ることなんてできないのだから。
心の中で夫に問いかける。
——私は、どうすればいいの。
もう一度あなたに会いたかった。
私にとってあなたは、初めて心を許せた人だった。
十五年間、どれだけ望みが薄くても、忘れたことはなかった。
——本当に?
月日が経つごとに、顔をぼんやりとしか思い出せなくなっていた。声を、交わした言葉を、記憶の淵に追いやって、日々の忙しさに紛れさせた。
最後まではっきりと残っていたのは、歯だった。
本当は、待つことに慣れて、その先を考えることから逃げていたのではないか。
そう、逃げていたのだ。ずっと。もう一度、会うことから。
まったくの別人として現れたとき、だから、怖いと思った。
遠野慎一郎という男に感じた違和感を突き止めるのが怖かった。
せっかく足を延ばして姿を見ても、直接尋ねることすらできなかった。
いま、この十五年でいちばん、あなたに近づいている。
もうすぐ、そこまで行ける。
あなたのいるところまで——。
「遠野さん」
受付の女性が遠野夫妻に近づいて声をかけた。
「お待たせいたしました。カルテのご用意ができましたので、書類に記入いただいてもよろしいでしょうか」
遠野氏がうなずき、立ち上がった。夫人の車椅子を押して、廊下の奥へと歩いていく。
足音が聞こえる。
別人として現れた夫の足音が、一歩ずつ、近づいてくる。
どうしていまさら会いに来たのか。
いったい、何が目的だったのか。
それはまだわからない。
でも、もしかしたら、逃げようとしたのではないか。
家族も仕事も、何もかもを捨てて、逃げたくなったのではないか。
一度は捨てたくせに。
ずるい男、と菫はぼんやりと思った。
