(十六)
木曜日。稔に電話をする日だ、と菫は朝、朝食のトーストを食べながら思った。
毎週というわけではないけれど、できるだけ時間を見つけて、決まった時間に電話をかけることにしていた。
毎週短い時間電話越しに話をするうち、いつの間にか稔に対して、情のようなものが菫の中に芽生えていた。
奇妙な関係だと思う。確証もないのにすべてを話せるわけではない。何も進展がなく、とくに話すべきことがない日も多かった。
それでもあの幼い少年がたった一人で出口の見えない迷路の中で彷徨っているのだと思うと、放っておけなかった。
仙台の病院に行くのなら、休診日の日曜よりも今日のほうがいいだろう。
帰りは夜になる。稔のことは気がかりだったが、電話をするのは来週の木曜日にしようと思いながら部屋を後にした。
しかし、この日、無理にでも時間をとって稔に電話をしなかったことを、後になって後悔することになった。
次の木曜日にはすでに、名古屋にいるはずの遠野慎一郎、小百合、稔の三人は、どこかへ姿を消していたのだった。
「……それで、どうしてお義兄さんまで一緒に行くことになったのでしょうか」
東京駅の改札で、菫は訝しげに良介に尋ねた。
朝、一緒に行くと連絡を受けたときは驚いた。本気だろうかと疑いつつ駅に行くと、予定の時間より三十分も前に着いていて、コーヒやらお菓子やら買い込んでいるのだから、もっと困惑してしまった。
大学は休みをとったらしい。普段無欠勤だからたまには休息をとらないと、と何でもないことのように言う。
「どうしてって、弟のことを知りたいと思うのは当然のことだろう」
当たり前のように言うので、それもそうかと納得しそうになったが……
弟。十五年以上も実家に帰らず、ほとんど他人のように暮らしてきたのに、いまさら仲のいい兄のように振る舞う良介にはやはり違和感が拭えなかった。
「それに、君の言うことが本当だとすると、どういうわけで別人に成り代わっているのか純粋に興味があるしね」
良介は微笑みながらそう言って、行こうか、と改札に向かった。
十五年前に仙台で見つかった身元不明の白骨死体。今はまだそれが誰なのかを証明することはできない。
でも、本物の遠野慎一郎のカルテを入手し、今名古屋で暮らしている遠野が別人だと証明することができれば——
この事態に展開があるかもしれない。
そのためには、身内である遠野夫妻の協力が必要だった。
新幹線の指定席に良介と並んで座る。机には売店で買ったペットボトルのお茶と缶コーヒー、そして良介が買い込んだチョコレート菓子。
隣に良平の兄がいるなんて、まだ現実とは思えなかった。
新幹線が動き出してから、菫は口を開いた。
「……答えたくなかったら無視してくださって構わないのですが」
良介はわかっていたように、うん、と相槌を打った。
「お義兄さんは、どうして家族と距離を置いていたのですか」
話を聞きに行くまでは、良介は家族のことに無関心な人だと思っていた。弟が行方不明になっても心配せず、両親のことを気にかけることもなかった。
それなのになぜ、いまになって弟の行方を探すのに協力的になったのだろう。
「まあ、そりゃあ気になるだろうね」
良介は苦笑しながら首筋を掻いた。
「……ええ」
「僕は元々、あの医院を継ぐつもりでいたんだ。弟は医者の道に進まなかったし、随分前からそれは決まっていたことだった」
でも、良介は両親の医院を継がず、大学で法歯学の研究をする道を選んだ。
「でも二十年ほど前——僕が大学院生の頃にあった事故で、考えを改めることになった」
「事故?」
菫があの医院で働き始める前のことだが、そんな話は聞いたことがない。それどころか、開院以来無事故の優良歯科と謳っているはずだった。
「治療中に使用した小さな器具が患者の上顎に刺さって炎症を起こしたんだ」
麻酔が効いているうちは患者も気がつかなかった。しかし家に帰って麻酔の効果が切れると、猛烈な痛みに襲われた。歯茎が大きく腫れ上がり、化膿を起こしていたのだ。器具は上顎の内側にまで入り込み、緊急手術を要する大事になったという。
患者は治療を担当した義父を訴えたが、義父は「証拠がない」の一点張りで自分の過ちを頑なに認めようとしなかった。先代の頃から受け継いできた、開院以来無事故の看板を汚したくなかったからだ。
「でも、異物を取り出したなら証拠はあったのでは?」
「証拠はあったはずだった。なのに、その証拠ごと揉み消したんだ」
菫は愕然とした。そんなことができるのだろうか。二十年前のことだから、今よりデータの管理が杜撰だったのかもしれない。それでも、医者として絶対にやってはならないことだ。
「患部は手術のあとも炎症を繰り返して、完治までに半年もかかったそうだ。その間の治療費も、慰謝料も、あの人たちは一切払おうとしなかった。払ってしまえば、こちらの非を認めたことになるからね。当時院生だった僕はそのことを知っていながら、何もできなかったよ」
良介は悔しそうに顔を歪ませた。
「たとえ命に関わらないことだとしても、あの人たちはきちんと自分の過ちを認めて償うべきだった。あの瞬間から、僕はもうあの人たちを医者として見れなくなった。ああ、こういうことが平気でできる人たちなんだって心底軽蔑したよ。そう思ったら、あの医院を継ぐ気持ちなんてどこにもなくなっていた」
良介は自分たちの非を認めなかった両親に失望し、家を出たのだという。
良介は、両親に自分たちの非を認めてほしかった。
患者の体の一部を傷つけ、負担を負わせてしまったこと。
評判が落ちるのに怯え、あったはずの証拠ごと事故を揉み消したこと。
その事故は証拠がないとして表には出なかった。
『開院以来無事故の優良歯科』の看板は守られた。
でも、それは嘘で塗り固めた嘘の看板だった。実際には、あったのだ。隠していただけで。
「何にせよ、あの人たちをあまり信用しないほうがいい。あそこで働いているのならなおさらね」
良介は温度のこもっていない冷たい口調でそう言って、机の上に置いたチョコレートの箱を開けた。
「悪いね。朝から重い話を。よかったら一つどうぞ」
「……ありがとうございます」
菫は手渡されたチョコレートの包みを開いて口に入れた。ほんのりとした甘さが口の中に広がった。
遠野家のチャイムを押すと、何度目かで遠野氏が扉を開けた。
菫と、隣に立つ良介の姿を見て驚く。
「今日は二人で来たのかい」
「お電話でもお話しましたが、息子さんの……」
言いかけた言葉を遮って、遠野氏が言った。
「まあこんなところで立ち話もなんだから、中に入ってお茶でも」
遠野夫人の姿が見えないので尋ねると、午前中はリハビリがてらデイサービスに行っているのだと言う。
一応家の中に招き入れてはもらえたものの、表情が固い。
理由は電話で伝えた内容だろう。
『息子さんが通っていた口腔外科のカルテを確認させていただけないでしょうか』
もはや孫が知りたがっているなどのごまかしは通用しない。
『なぜそんなことをする必要が?』
電話越しにもわかるほど、その声にははっきりと不信感がこもっていた。
菫が言葉に詰まらせると、遠野氏はため息を吐いた。
『何か変だとは思ってたよ。単なる孫の知り合いがわざわざこんな遠くまで話を聞きに来るなんて。あんた、息子のことを探ってるんだろう』
『そうです』
『息子が何したか知らないが、他人が人の家のことに首を突っ込むもんじゃない。下手な詮索はよしなさい』
気づけばそう嗜められていた。
息子の浮気相手かもしれない、などと勘繰ったのだろう。そう思われても仕方のないことだった。いっそそんな色恋沙汰で済ませられたら、どんなによかっただろう。
これ以上話すことはないと一度は拒否されたが、あまりに菫が食い下がるので、『これで最後』という約束で、なんとかもう一度話す機会を得られたのだった。
「率直に聞くが、あんたと息子はどういう関係なんだ」
遠野氏が机にお茶を淹れた湯呑みを置いて言った。
言うべきか迷ったが、ここで嘘をついても仕方がないと心を決める。
「夫婦です」
「何を言っているんだ。息子が結婚したのは小百合さんだろう。それとも小百合さんとはもう……」
「そうです。でも、私が知っている『遠野慎一郎』という人物はあなたの息子さんではありません。まったくの別人が、息子さんのふりをして生活しているんです。その別人が私の夫だと私は思っています」
遠野氏は信じられないという目で菫を凝視した。
「な……何を馬鹿なことを。そんなふざけた話をするためにここまで来たのか」
「ふざけていると思われるのも当然ですが、本当のことです」
なんて残酷なことを告げているのだろう。
もう十五年も顔を合わせていない息子。
連絡はなくとも、どこかで生きていると思っていた。
それが二年前、突然孫から手紙が届いたのだ。さぞ喜んだことだろう。
その孫と自分たちが血が繋がっていないかもしれないなんて、夢にも思わなかったに違いない。
「私からもお願いします」
それまで黙っていた良介が、遠野氏をまっすぐに見据えて言った。
「私は東京の大学で法歯学の研究をしています。そして、彼女の夫の兄でもあります。もしこれが本当だとしたら、十五年間もの間、私の弟はあなたの息子のふりをして生きてきたことになります。しかし捜査上すら出ていない今、それを証明する方法がありません。そこで息子さんの診療記録がどうしても必要なのです」
遠野氏は口を注ぐんで良介の話を聞いていた。
顔は紅潮し、手は震えていた。前回会ったときの穏やかさはどこにもなかった。
「帰ってくれ」
遠野氏は声を震わせながら言った。
「ワタシはカミさんの世話で大変なんだ。それでも、息子がいて可愛い孫がいてくれるから幸せなんだ。それの何がいけないんだっ! 帰れ!」
その老体から出たとは思えないほどの大声に体を震わせた。
どうしたらわかってもらえるだろう。
いや、わかってもらおうとするのが無謀なことだったのかもしれない。
他の方法を探すしかないのだろうか——
そのとき、玄関の扉が開く音が聞こえた。
「え……?」
遠野氏が戸惑った表情で入口のほうに目を向けた。
遠野夫人が壁を伝いながら、ゆっくりとした足取りで部屋に入ってくる。
「あなた、大きな声が外まで聞こえてましたよ」
夫人は穏やかな笑みを浮かべながら言った。
「お前、なんでこんな時間に……」
「体調が優れないと言って早く帰してもらったの。あなたのことが心配だったから」
ねえ、と夫人は夫の隣に慎重に腰を下ろした。そして、その膝に手を添える。
「あなたも本当は気づいていたんでしょう? 稔が慎一郎に少しも似てないこと」
