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『あなたのいるところ』第19話

2026年7月10日 投稿
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(十九)

 十五年前のあのとき、もう元の生活には戻れないと思った。
 自分は一人、人を殺してしまったのだから。

 結婚生活に不満はなかった。
 妻となった菫は少し生真面目すぎるところがあり人付き合いは苦手だと言っていたが、何度も顔を合わせるうちに、少しずつ心を開いてくれるようになった。
それまで付き合ってきた女たちとは違うタイプだった。最初は物珍しさもあったが、それが嬉しく、可愛らしいと思うようになった。
 交際を始め、一緒に暮らすようになって、居心地の良さを感じていた。
 菫のことは愛していた。だが、その反面、ときどきふとその平穏な暮らしから逃げ出したくなることがあった。
 こんなはずじゃなかった。自分はもっと自由だったはずだと。
 幼い頃から、常に兄と比べられて育った。
 兄は自分と違って昔から優秀だった。
 両親は出来の悪い次男に期待することを早々に諦め、祖父から受け継いだ歯科医院を長男に継がせるつもりでいた。その未来は疑いようもなく、期待もされていない自分はどこかの会社に入って結婚して家庭を持つのだろう、とぼんやりと考えていた。
 だが、あるとき突然、兄が『医院は継がない』と言い出した。大学に残り、研究の道に進むのだという。
 理解できなかった。現役で歯学部に合格し、両親の期待を一心に受け、約束された道があるのに、いったい何が不満なのか。
 兄が突然そんなことを言い出した理由はわかっていた。
 父が起こした仕事中のミスだろう。
 ちょっとした治療中のミスで患者に怪我を負わせてしまったことがあった。
 だがそれがなんだと言うのか。別に命に関わるような怪我ではなかったと聞いていた。ただの、口の中の怪我ではないか。完治には半年かかったらしいが、結果的には跡も残らなかったのだから問題ないではないか。
 父が断固として自分のミスではないと言い張ったのが気に食わなかったのか。父も父だが、祖父から受け継いだ看板に傷をつけまいと必死だったのだろう。どうしてそれがわからないのか。
 兄は研究の道に進むと決めて以来、実家にめっきり寄り付かなくなった。
 後継者がいなくなり、両親はしばらく落ち込んでいたが、やがて気を取り直したように自分の世話を焼くようになった。
 それまでほとんど放置状態だった次男に、早く身を固めろと言い出したのだ。
 両親の魂胆はわかっていた。歯科医になる女と結婚し、子供を産めと言いたいのだろう。子供がだめなら、孫に期待するつもりなのだ。
 そのわかりやすすぎる手のひら返しには苦笑するほかなかった。
 ——そんなにあのぼろい歯医者が大事なのか。
 呆れる気持ちもあったが、それが両親の人生の大半を占めてきたのだから、仕方のないことなのかもしれない。
 本音を言えばまだ遊んでいたかったが、菫との結婚を早々に決めたのは、せめてもの親孝行のつもりだった。
 愛情はあった。子供が産まれ、家庭を築いていく未来も想像できた。営業には向いていたらしく、仕事もそれなりに順調だった。
 だが、結婚しても変わらず、ふとした瞬間に逃げたくなる気持ちは消えなかった。
 担当の営業先が仙台に決まったときは、軽い逃避行のつもりだった。
 何も本当に逃げ出すわけじゃない。たまに出張に行くだけ、仕事なのだ。
 かつて付き合っていた小百合のことを思い出した。小百合が結婚して仙台に嫁いだことを。
 小百合が東京を離れるのと同時に関係を解消したきり、連絡は途絶えていた。
 いま頃どうしているだろう。
 もう一度会えないだろうか。
 その軽い気持ちの逃避から、二度と戻れなくなるとは、そのときは思ってもみなかった。
 あるとき、営業先の総合病院で、偶然見かけたのだ。
 小百合とその夫を。
 細身だったはずの小百合のお腹がかすかに膨らんでいた。
 妊娠しているのだ、と気づいた瞬間、怒りが湧き上がるのを感じた。
 夫は明らかに歳上の、冴えない容姿の男だった。
 自分を捨ててあんなくたびれた男を選んだ小百合が憎らしくなった。
 あの男さえいなければ、いまごろ隣にいたのは自分だったかもしれないのに。
 東京に戻って菫の顔を見ると、煮えたぎっていた怒りは風で火が消えるように落ち着き、現実に戻った。
 これが自分の現実だ。子供を作り、育て、ゆくゆくは両親が宝のように大事にしている医院を継がせることが。
 しかし、そんなことに意味はあるのだろうか。
 自分はそんなつまらない親の願望のために生きているのだろうか。
 違う、と思った。自分の人生は自分のものだ。
 両親のものでも、そして、妻である菫のものでもない。
 それから何かと都合をつけて出張の予定を入れるようになった。日帰りのときもあったし、とれるときは週末と繋げて三日間のときもあった。
 菫は働き始めたばかりで忙しく、出張だと言えばなんの疑いもなく送り出してくれた。
『いってらっしゃい。気をつけてね』
 そう言われるたび、後ろめたさを感じたが、やめようとは思わなかった。
 そしてついに、小百合の家と夫の素性を突き止めた。
 夫は遠野慎一郎という名の写真家だった。本名で活動しているらしい。
 それほど有名ではなく、ネットで検索してもわずかにしか情報が出てこないような仕事ぶりだったが、小さなギャラリーで個展を開いているという情報を見つけ、足を運んだ。
 実際顔を合わせても、やはり冴えない男だと思った。
 こんな男のどこがよかったのか——
 男は自分の身なりにはまるで無頓着で、社交性にも乏しいようだった。まるで魅力を感じない。
 後をつけていることにもまったく気づかない愚鈍さに苛立ちが募った。
 この男さえいなければ、小百合の隣にいるのは自分だったかもしれない。
 少し肌寒さを感じる秋の夜だった。
 個展の片付けを終え、一人でギャラリーから出てきた遠野を、後ろから羽交締めにして車に引きずり込んだ。
 あのとき、ほんの一瞬でも現実に戻ることができていたら、いまとは違う平穏な未来があったのだろう。
 でも、もう遅かった。
 引き返せないところまで来てしまったのだ。
 そのまま人気のない山まで行き、遠野が息絶えたのを確認してから、地面を掘って埋めた。
 静かで、どこまでも深く闇が続いていた。
 これから冬が来る。あの男の死体は雪の下に埋もれて朽ちてゆくだろう。
 これでもう、邪魔者はいなくなった。
 あとはどうやって小百合に近づくか——。

 東京の家に帰り、いつも通りに振舞った。
 しかし、日が経つにつれて、東京での暮らしに現実感を感じなくなっていった。
 自分の居場所はここではない。
 小百合はどうしているだろうか。
 夫がいなくなって、さぞ心細い思いをしていることだろう。
 そばにいてやらなければ、と思った。
 あの男の死体が見つかったのは、思ったよりも早かった。
 身元不明の白骨死体は一時世間を騒がせたものの、その一か月後、あの大震災が起こったのだった。
 あの日の朝は、小百合を迎えに行くつもりで家を出たのだ。
 午後には予定していた営業先を回り終え、小百合の家へと車を走らせていたとき、衝撃が走った。
 ——地震だ。
 ものすごい揺れに呆然とした。何かが窓ガラスに当たってヒビが入った。道路は瞬く間に混乱に包まれ、その先へ進むことはできなかった。
 前方では車同士がぶつかって事故を起こし、人々が悲鳴をあげながら逃げている。
 自分も逃げなければ——でも、どこへ。
 ほんの一瞬、菫の顔が頭に浮かんだ。
 きっと心配しているだろう。すぐに連絡するべきなのはわかっていた。
 携帯を取り出し、電話をかけようとしたときふと考えが変わり、ボタンを押すのをやめた。
 電車は停まっている。今日中に帰ることはできないだろう。
 それなら——いっそ、このまま、帰らなければいいのではないか。
 小百合が心配だった。一人で震えているのではないか。
 家まで行きたかったが、交通手段もないのだから行く術もなかった。
 逃げ惑う人々の波に押され、促されるまま避難所に向かった。
 逃げる途中に少し怪我をした。応急処置をしてもらい、避難所で夜を明かした。
 自分よりもっとひどい怪我をした人たちを数えきれないほど目にした。
 生々しい怪我を見て、あの日からずっと手に残っている血の跡がまた浮かんで見えた。
 この血はもう二度と消えることはないとわかっていた。
 それからいくつかの避難所を転々としながら小百合を探した。
 避難所のテレビで、現実とは思えないような津波の光景を目にした。
 もしかしたら小百合も津波に巻き込まれてしまったのではないか——
 あるとき、避難所でよく知っている顔を見かけた。
 母だった。まさかと思い影から様子を伺っていたが、間違いなく自分の母だった。
 声をかけようかと迷ったが、そのまま、そこを離れた。
 もう戻ることはできない。東京にも、菫が待つあの家にも。
 小百合の家を訪れたのは、地震から半月が経ってからだった。
 小百合が住んでいた家の周辺は被害が少なかったらしく、その一帯の景色は看板が落ちていたり道路がひび割れていたりしていたものの、建物はほとんど以前と同じ状態で残っていた。
 ——ようやく、ここまで来た。
 感慨深い気持ちで小百合の家のチャイムを押した。
 理由など考えていなかった。ただ、心配で、たまらずに様子を見に来たのだと、それだけを伝えようと思っていた。
 ドアが開いて、小百合が顔を出した。
 前に見たときよりずいぶんと顔がこけ、虚な目で、小百合が自分の顔を見た。
 目を見開き、口を震わせ、涙を浮かべて、声を漏らした。
 小百合の言葉に耳を疑った。
 小百合は自分を見て、最も聞きたくない名前を口にしたのだ。
『慎一郎さん……?』
 小百合の虚な目には、自分の姿があの男に映っているのだろうか。
 数年振りに間近で見るかつての恋人は、いまにも崩れてなくなりそうなほど儚げに見えた。
 そのとき、気づいた。
 前に遠目に見たときはたしかにあったはずの、お腹の膨らみがなくなっていたことに。
 そうか——それを見て悟った。
 子供はもういないのだ。
 夫が行方不明になった不安からか、地震の衝撃か、理由はわからないが、そこにいないのは明白だった。
 目の前にいるのは、夫と子供を失った哀れな女だった。そしてどういうわけか、自分を夫と勘違いしている。それがあの冴えない男だというのが憎らしかったが。
 この女は自分がいないと生きていけないのだ。
 そう思った瞬間、いままで感じたことのない快感を覚えた。
 その快感を抱くように、手を伸ばした。
『ああ、そうだよ。待たせてすまなかった』
『ああ……あなた……おかえりなさい』
 小百合は潤んだ瞳で言った。
『ただいま。もうどこにも行かないよ』
 そう言って、強くそのか細い体を抱きしめた。
 あの日、自分は遠野慎一郎になったのだった。

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