(二十)
遠野慎一郎は地元では少々顔の知れた写真家だった。震災の混乱が落ち着かないうちに引っ越しを決め、震災の混乱に紛れるようにして小百合と二人で町を離れた。
身分を偽るのにも顔を変えるのにもすべて金が必要だった。小百合は相変わらず夢と現実の区別がつかない様子で——それは自分にとっては好都合だったが——働ける状態ではなかった。
容姿、名前、肩書き、全てを変えるのには金が必要だった。普通の会社員の給料では到底足りなかった。
そこで医療関係者を装い、ネットで安い医療器具を高齢者に売ることを思いついた。
元医療機器メーカーの社員という肩書きを利用して孤独な高齢者の健康相談に乗り、いかにも最新の医療知識があるかのように振る舞うだけで、年寄りたちは自分の話に耳を傾けてくれた。
まったくの別人として生きると決めたのに、皮肉にも、そのためにはこれまでの営業経験を活かすしかなかったのだ。
遠野慎一郎という男は地味で、いかにも冴えない男だった。ぼそぼそと喋り、高齢者を騙すようなことは決してしない、実直な男だった。
あるとき、どうしても気になって尋ねたことがある。
『君は俺のどこを好きになってくれたんだい』
小百合は三十を過ぎても年齢を感じさせない美しさがあった。相手ならほかにいくらでもいたはずだ。
一緒に過ごすほどわからなくなった。自分を捨ててどうしてこの男と一緒になったのか。弱みでも握られていたのかと疑ったほどだ。
小百合はどこを見ているのかわからない澄んだ瞳でくすくすと笑った。
『何言ってるの。よく知ってるでしょう。私はあなたの写真が好きなの。あの写真はあなたにしか撮れないのよ』
家にあったあの男の写真集を一つ残らず捨てた。
自分に写真は撮れない。いくら真似をしてもそれだけはどうしてもできなかった。
写真を撮ることも、写真に映ることも——
自分が偽物だという証拠を形にして残すようで、怖かったのだ。
一年ほど経って、小百合がふと尋ねた。
『写真を撮らないの?』
『写真はもうやめたんだ』
答えると、小百合は呆然としたように、そう、とつぶやいた。
子供が産まれ、父親になった。その頃には見た目も中身も、すでに元の自分を思い出せないくらいに別人になっていた。
うまくいっていたはずだった。
あいつが現れるまでは、全てうまくいっていたのだ。
八年前、ちょうど稔が産まれたばかりの頃だった。
仕事から帰る途中、ある男が声をかけてきた。
『お久しぶりです。平川さん』
その瞬間、血の気が引いた。今の自分をその名前で呼ぶ人間はいない。
『ああ、今は遠野さんでしたっけ』
夜の闇の中に不気味に浮かぶ顔が悪魔のように見えた。もしくは疫病神か。
『すみません、人違いではないですか』
そう言ってはぐらかそうとしたが、男はしつこく詰め寄ってきた。
『僕、最近こっちによく出張に来るんですよ。そのときに知り合いの先生が言ってたんです。親戚が変な男に騙されて高い医療器具を買わされたって』
迂闊だった。客の家族関係は調べているつもりだったが、親戚まで調べるべきだった。
こんなところから綻びが出るなんて……いや、いつかこんな日が来るだろうとは予想できたはずだった。
他人になりすまして生きるなんて、そううまくいくはずがないと。
菫先生、とかつての後輩、和田は言った。
『今でもあなたを待っていますよ。そろそろ帰ったほうがいいんじゃないですか』
『帰れるはずがないだろう』
『あなたの居場所はここじゃないでしょう』
俺の居場所はここだ。家族が待っているんだ。
『そうですか。では今後はあなたのことを遠野さんと呼ぶことにしますよ。そこで相談なんですがね——』
弱みを握られたら終わりだ。
和田は会社の商品を横流しする代わりに、売り上げのほとんどを持っていった。まるで返しても返してもいっこうに減らない借金をむしり取られているようだった。
抗う選択肢はなかった。年寄りを騙し続けた。罪悪感などかけらもなかった。ただ自分と家族を守るために必死だった。
小百合は徐々に回復し、仕事ができるようになった。得意な料理を活かし、料理教室の講師を始めた。
その頃からだ。小百合の自分に対する態度が変わり始めたのは。
いつ気づいたのかはわからない。正気を取り戻すのと同時に、本物の夫はもうどこにもいないと気づいたのだろう。
結局俺はどんなに頑張っても遠野慎一郎にはなりきれなかったのだ。
それでも小百合は何も言わなかった。気づいていないふりを続けた。お互い何も言わないまま、共犯のような関係を続けた。
だがそれはもはや愛情ではなかった。この歪な家族の形を守るために、言わないほうがいいと判断したに過ぎなかった。
『あなたの居場所はここじゃないでしょう』
何年も前に和田に言われた言葉がこびりついたように頭に浮かんだ。
——俺の居場所はここじゃない。
家族がいる。でもそれは本物の家族じゃない。自分はここにはいない。
いつしかそんな思いに支配されるようになった。
その度に菫の顔を思い浮かべた。
十五年前に家を出たきり一度も会っていない妻の顔を。
和田から菫は籍を外していないことは聞いていた。
菫はまだ俺のことを待っている。
十五年もの間。俺が菫のことを忘れている間もずっと。
ようやく気づいた。
——そうだ。俺の居場所はあの家だった。
十五年前も今も変わらず、あの家しかなかったのだ。
菫は十五年前に住んでいたマンションに今も変わらず住んでいた。
待ってくれているのだと思った。
ひと言でも話がしたかった。
そのとき、ある考えが浮かんだ。
患者として会えばいいのだ。
菫は気づくだろうか。
自分のことを夫だと。
見た目も名前も変わってしまったが、気づいてくれるだろうか。
名前を呼ばれて診察室に入った。
菫は俺を見て、言った。
『こんにちは。医師の平川です。よろしくお願いします』
相変わらず、にこりともしない愛想のなさ。
二人でいるとき、自分にだけ見せるはにかんだような笑顔が好きだった。
『遠野さん、お聞きしたいことがあるんですが……』
前にどこかでお会いしましたか——菫はそんなことは言わなかった。
『失礼ですけど、近くにお住まいではありませんよね』
『ああ、はい。出張先で、突然歯が痛みだして。スマホで近くの歯医者を検索したら、ここが出てきたもので。でも、予約もなしに来たから迷惑でしたかね』
『いえ、とくに迷惑というわけでは』
当たり障りのない、ただの医者と患者としての会話をして医院を出た。
短い夢から覚めた気分だった。
俺は菫の夫ではない。この医院の息子でもない。
そのどちらからも逃げたのだから。
——ここは俺の居場所ではない。
呪いのようにその言葉が頭から離れない。
じゃあ、どこなんだ。
俺はどこに行けばいいんだ。
『明日、そっちに行くので。よろしくお願いしますね』
定期的にかかってくる和田からの電話にもうんざりしていた。
こいつのせいだ、と思った。
こいつが現れてから、何もかもうまくいかなくなった。
こいつさえいなければ——。
翌日、俺は小型のナイフを鞄に入れて待ち合わせをしているビルに向かった。そのビルに入っているレンタルスペースで金の受け渡しをするはずだった。
しかし、和田はそこには来なかった。何時間待っても姿を現さなかった。
——ああ、ついに終わりか。
俺を用済みだと判断し、裏切ったのだ。
しかし、予想もしていなかったことが起こった。
和田と連絡がつかなくなって一ヶ月が経った頃、ニュースで和田が殺されたと知ったのだ。
その後、連絡をとっていたという理由で警察が尋ねてきたが、ただの顔見知りだと言ってどうにか乗り切った。
おそらくほかにもどこかで恨みを買っていたのだろう。
どこの誰かは知らないが感謝をした。
もう俺を脅かす存在はいなくなったのだ。
ようやく元の平穏な暮らしに戻れるのだ。
だが、その平穏も長くは続かなかった。
一週間前、電話がかかってきた。
公衆電話からだった。
『今すぐ逃げて』
と電話の主は言った。
