
(十二)
瑠夏は黒い革製のバレエシューズを履いていた。見覚えのある、でも普段使いはしない、特別な日のための靴。
その足元を見たとき、瑠夏は一人のバレエダンサーとしてここに来たのだと、舞にはわかった。
「瑠夏。一緒に踊ろう」
二人は靴を脱いで靴下だけになった。
片足を前に踏み出して、つま先で床に触れるだけの軽いステップから始める。
「覚えてる?」
「うん」
その少しの動作だけで、瑠夏には何を踊るのかわかったようだった。
そのまま前進し、引き上げるように体の重心を上へ。片足を後ろに伸ばし、上体は前に倒さず両手を広げる。そしてピルエット、つま先で回転する。
店に入ってから一度も目を合わせようとしなかった瑠夏が、ようやく舞の顔を見た。手を取り合って、さっきより大きく回る。
踊っていると、瑠夏が何を考えているか、舞には手にとるようにわかった。戸惑っている。でもそれ以上に、また一緒に踊れることの喜び――それはどんな状況でも、消えない感情だった。一瞬の表情がすべてを物語っていた。
そして舞も、同じ気持ちだった。もう二度と叶うことはないと思っていた。もしかしたら、いまは亡霊となった舞姫のように、束の間の幻想を見ているだけなのかもしれないけれど。
『ラ・バヤデール』
それは、数ある演目の中で、舞がいちばん好んでいたものだった。
舞台は古代インド。寺院の舞姫であるニキヤは、戦士ソロルとひそかに愛し合っている。しかしそれは許されない恋だった。
寺院の娘ガムバッディもまた、ソロルに想いを寄せていた。そして二人は結婚することになる。婚約式の舞姫として招かれたニキヤは、ソロルとの仲に気づいたガムザッティに妬まれ、毒蛇に首筋を噛まれて命を落としてしまう。
ニキヤの死を嘆き、幻夢の世界「影の王国」に迷い込んだソロルの前に、三十二人のバレリーナが現れ、美しい舞を踊る。ソロルはニキヤと再会し、二人は夢の中で再び愛を誓い合う。
『ラ・バヤデール』は、集団で同じ動きをする群舞が特徴的な演目だ。エキゾチックな音楽に、幻想的な踊りが観る者を夢の世界へといざなう。集団の一部でいれば、どちらかが目立つことも、影に隠れることもなかった。
三十二人の二人でいれば、舞と瑠夏は対等でいられた。競い合う必要はなかった。
でも、できなかった。
“二人でプリマになる”
そう約束したから。
二人で一緒にというのが、叶わないとわかっていても。
それでも頂点を目指し続けた。
「ねえ。これって、私たちみたいだね」
ふいに瑠夏がそう言った。その瞬間、繋いだ手がすっと離れた。
「舞、彼のこと、好きだったでしょ」
「えっ?」
“彼”が指す人物は一人しかいない――瑠夏の恋人だ。
「あたしに遠慮して、自分の気持ちに気づかないふりしてたよね。でもね、バレバレだったよ。彼があたしよりも舞に惹かれてたことも」
「瑠夏……私は」
「わかってるよ。二人はあたしを裏切るようなことはしなかった。だからこそ、心で繋がってるのを見せつけられるようで辛かった」
舞は恋を知らなかった。
寝ても覚めてもバレエ一筋だった。踊っていないときでも気づけばつま先立ちで歩いているくらい、生活の中に溶け込んでいた。
けれども、バレエの物語は、ほとんどが悲恋を描いたものだった。
人を狂わせるような、闇に突き落としてしまうほどの恋を、一度でいいからしてみたかった。知らなければ、自分が踊る物語を永遠に、本当の意味で理解できないままなのだ。
五年前の夏、舞は、瑠夏の恋人に出会った。栗色の髪に、青い瞳。天使みたいな、美しい人だと思った。
『はじめまして。舞』
そう言って微笑んだときの彼の美しい顔が忘れられなかった。
恋に落ちるのに、その一瞬だけで十分だと知った。
瑠夏は恋人と出会ってすぐに一緒に住み始め、舞は瑠夏の友人としてたまに二人の部屋に食事に呼ばれた。瑠夏と恋人はいつも明るく、お似合いのパートナーに見えた。舞は二人の幸せを心から願っていた。
五年の月日を経ても、三人の関係は変わらなかった。表面的には、何も。
でも、彼からときどき向けられる視線には気づいていたけれど、気づかないふりを続けた。
しかし舞にとっても、自分の気持ちに嘘をつき続けることは、思っていた以上に難しいことだった。
彼に会わないよう、舞はますますレッスンに打ち込んだ。瑠夏が幸せなのがいちばんいいのだからと、自分に言い聞かせた。
「彼を好きになったとき、あたしの目標はプリマになることじゃなくなったの。ただ一緒にいたかった。舞みたいに、一つの目標だけを見て努力し続けることが難しくなっていった。だから舞がハーブティーに薬を混ぜたことも、見ないふりをした。プリマにふさわしいのは舞だって、本当はわかってたの。でもね、いちばん大切な人を奪われるのだけは、耐えられなかった……」
よく考えれば、わかったことだった。
瑠夏が気づかないはずがなかった。
舞が瑠夏の気持ちを手にとるようにわかるように、瑠夏も舞の気持ちにとっくに気づいていたのだ。
舞は瑠夏と向かい合い、再びその手をとった。
舞の首を絞めたとき、瑠夏は泣いていた。言葉にあらわすことのできない感情をその両手に込めて、締め付けた。
――ああ。これが、私がずっと知りたかったこと。
薄れる意識の中で、舞は思った。最後にようやく、一人の人間を狂わせるほど大きな愛を知ったのだ、と。
『ラ・バヤデール』の主題は「愛と裏切り」そして「幻想の世界での救済」。
舞姫のニキヤと青年ソロルは幻想の世界で再会し、永遠の愛を誓い合った。
でも、物語と現実は違う。
「彼は瑠夏を愛してたよ」
舞は言った。
瑠夏が涙を浮かべて舞を見る。
彼は舞のことを意識していたかもしれない。でもそれ以上に瑠夏のことが、大切だったのだ。
瑠夏は舞をある場所に隠したあと、バレエ団に休業届を出して、姿を消した。
舞の意識は体を離れ、彼のもとへ向かった。
ほんの少し、期待していたのだ。
彼なら、自分のことが見えるかもしれないと。
ほかの誰にも見えなくても、彼なら。
しかしそれは勘違いだったと、思い知ることになる。
彼は家の扉を開けて、警官と話しているところだった。
『消えたいって言ってた。しばらく留守にするって』
彼は警官の質問に、そう答えた。
彼は瑠夏の姿を探していた。警官が帰ってからもずっと、瑠夏の面影だけを探していた。
そのときにやっと、彼にとって本当に大切だったのは瑠夏だけだったと知ったのだ。
私は静かな店内で、瑠夏と向かい合い、手を取り合って泣いた。
まだ舞台の上に立っているような気がした。
けれど、いつかは幕が下りるときがやってくる。
残された時間が長くないことを、舞は知っていた。
『会いたい人に会うこと』
舞の願いは、すでに叶ったのだから。
憎しみの感情は、いまはもう、不思議なほど感じなかった。
瑠夏はきっと、これから自分が正しいと思うことをするだろう。
それを見届けることは、舞にはできない。
「さよなら。瑠夏」
舞は言って、それから、かおるさんを見た。
「かおるさん。おいしいハーブティーをありがとう」
何も聞かないでここにいさせてくれたこと。
何かを食べておいしいと思うこと。
こんなにも温かくて優しいハーブティーがあるのだと教えてくれたこと。
『喫茶ネリネ』に来られてよかった。心からそう思った。
二人を静かに見守っていたかおるさんは、目にいっぱい涙を溜めて、ほほ笑んだ。
「また、お待ちしております」
いつかまた、どこかで会えることを願って。
「はい――また」
舞はそう言って、扉を開けた。