7話
[異動願い]
大きなフォントでそうタイトル付けされた書類を書き終え、最後に自分のハンコを打つ。まさかこんな決断に至るなんて、結婚前は想像もしていなかった。
「部長。例の書類、書いてきました。ご確認をお願いします」
「ありがとう。美貴ちゃんの意志、しかと受け取ったわ。私達がちゃんと受け継いでいくから、安心して任せてちょうだい」
「私の方こそ、本当に感謝しています。何とお礼を言ったらいいか──」
こちらに向けられた部長の優しい笑顔に、私は深々と頭を下げた。ファッションデザイナーで貫いていくはずだった自分のキャリア。しかし……私はこの瞬間、デザイン室から総務部へ異動することになった。
初めて部長に相談したのは二日前。私は限界だった自分の生活を、ありのままに吐き出した。苦しい。朝が来るのが怖い。今のこの状況を何とかして打破したい。そう思って、私はデザイン室を出たいと申し出た。
だけど、ファッションには関わっていたいし、小室デザインというこの会社は好きだ。だから総務部という形で会社には残り、デザイン室の未来を近くで見守る。しかしそれは、ファッションデザイナーの第一線から退き、プレイヤーとしての幕を下ろすということを意味する。デザイン室のメンバーにも負荷をかける。苦渋の決断だったけど……それが、真夜中のベランダを経て辿り着いた私の答えだった。
聞き苦しいとも思える私の弱音を、部長は黙って頷きながら、最後まで聞いてくれた。そして、「美貴ちゃんの本音、聞かせてくれてありがとう」と前置きした上で──自分だけでは想像もできなかった選択肢を私に与えてくれた。
「気持ちは分かったわ。だけどね──私は常々思うの。女性の幸せっていうのは、完全な二者択一で決まるものじゃないって。イエスかノーか、辞めるか辞めないか──それだけじゃない。その間にある、ちょうどいい着地点が絶対にあると思ってるわ」
「ちょうどいい着地点、ですか……」
「息子の李都君、今三歳よね? 李都君が小学校に上がったら、デザイン室へ戻って来なさい」
「えっ?」
部長の提案に、思わず俯いていた顔を上げる。
戻って来る。そんな発想、私には少しも無かったから。
「保育園を卒園するまでは、十五時までの時短勤務。残ってる有休日数もフルで使ってね。李都君に手が掛からなくなってきたら、その時にデザイナーとして復帰してちょうだい。総務部長へは私からお願いしておくわ」
「ほ、本当に……そんなことできるんですか」
「当たり前じゃない。私は部長よ? 部下の為に権力を有効に使うことも、管理職の役目なんだから」
部長の言葉が、まるで電撃のように体を貫いていく。驚きと安心感が勢いよく押し寄せ、あっという間に心を満たす。
デザイナーを辞めなくていい。そう思えた瞬間──これ以上無いほどに、心の底からホッとした。
「美貴ちゃんは今やデザイン室に欠かせない優秀なデザイナーなのよ。そんな人材を手放すなんて、私には到底できやしないわ」
「部長──」
「今は心と体を休めて、家族との時間を大切にしなさい。これは上司からの命令よ」
そう言って優しく笑いかける部長。その表情を見て、私は思わず涙を零した。
私は本当に、会社に恵まれた。どれだけ感謝してもしきれない、ありったけの恩恵を受け取ることができた。家族を大切にしていく為、そしてファッションデザイナーとしてこれからも働いていく為。私は部長の”命令”に、快く従うことにした。
*
仕事と家庭の両立。今まで私は、その板挟みに苦しみ続けてきた。
もちろん、同時に完璧にこなせる人もいるかもしれない。だけど……私には無理だった。人それぞれキャパシティーが異なる中で、私はいっぱいいっぱいになってしまった。それは強がらずに認めるしかない。
だけど──諦めるという選択肢を選ぶのは、まだ早い。自分だけでは実現できない解決策がどこかに必ず存在していて、周りの助けがあれば、案外ひょいと乗り越えることができる。小室デザインという会社が、それを教えてくれた。
それに、ここ最近のメンバーの働きぶりを見ると、しばらくは安心してデザイン室を任せられると感じる。李都がもう少し成長するまで──総務部という少し離れた場所から、ファッションの世界を見守っていこうと決意した。
それから急ピッチで引き継ぎをして、デスクを総務部へ移した私。正直に事情を説明すると、デザイン室のメンバーも温かく送り出してくれた。今は慣れない事務仕事を少しずつ覚えながら、板挟みになっていた頃より時間に余裕を持てている。
「では、お先に失礼しまーす」
時短勤務に切り替えたことで十五時には会社を出られるようになり、家へ持ち帰る仕事も無くなった。その分生まれる時間と心の余裕を、家族へ充てることができる。綱渡りだった日々は解消され、今は充実した毎日を送ることができている。
「ママー!」
「李都、おかえり!」
笑顔を浮かべてこちらにやって来る李都を抱きかかえ、保育園を後にする。そして──今日ようやく、一ヶ月の出張から慎吾が帰って来る。レトルトではない温かいご飯で食卓を囲みながら──久しぶりに家族全員で、夕食を楽しもうと思う。
-完-
