(三)
平川歯科医院は平日は朝の九時から夜の七時までだが、土曜日は夕方五時に診療を終える。
診療が終わると、それぞれの担当について掃除を開始する。清潔さは医療現場の基本。土曜日は一週間の締めとして、普段より念入りに掃除をすることにしている。
菫は院長室の掃除をしたあと、受付カウンターの奥にあるガラス戸棚を開けて、カルテのチェックをした。
十五年前の紙カルテが棚に残っているはずもないのに、もしかしてどこかに紛れていたりしないかと、探してしまう。念のため探してみたが、遠野のカルテも、やはりなかった。
「菫先生、何かお探しですか?」
パソコンに向かって点数表のチェックをしていた岩沼が、振り返って尋ねた。
「いえ、気にしないで」
あまり時間をかけると、失くし物でもしたのかと心配されてしまう。
挨拶を終えて、お喋りをしながら更衣室に向かうスタッフに「お疲れさま」を言って、裏口の玄関から外に出た。
五時半。いつもなら都営バスに乗ってまっすぐ荒川駅前近くのマンションに帰るところだが、その前に、寄っていくところがあった。
医院から十分ほど歩くと、夫の実家がある。
近くに地域のふれあい会館があり、町内会の会合を終えた老人たちがぞろぞろと出てくるのが見えた。
そのうちの一人が菫に気づき、笑顔で声をかけた。
「あら平川さんとこの先生、お疲れさまー」
「お疲れさまです」
菫は頭を下げて答えた。そしてとくに急いでいるわけでもないのに、足早にその場を後にした。
こういうとき、社交的な義母なら、このままお喋りに参加して世間話に花を咲かせるのだろう。菫はいわゆるご近所の付き合いが苦手だった。四十二にもなって情けないと思いつつ、無理に直そうとも思わない。
そう思えるのは、良平のおかげだった。
『菫はそのままでいいよ』
『そうかな』
『菫が優しい人だってこと、わかってくれる人はちゃんといる。俺はわかってるから』
『それなら、良平だけわかってくれればいい』
『お、独り占めかあ。それも悪くないかもな』
いつかの会話を思い出す。
懐かしい、良平と過ごした時間。
仕事を始めたばかりで慣れないこと続きだった菫の話を、いつもにこやかに聞いてくれた。
いつもそばで支えてくれる、優しい夫だった。
その優しい夫は、いなくなってしまった。
十五年間、何の手がかりもなかった。その中でようやく見つけた手がかり。
すぐに切れてしまいそうなか細い手がかりだけれど、菫はその糸を、引っ張ってみようと思った。
手繰り寄せれば、もしかしたら何か新しいものが見つかるかもしれない。
良平の実家は、重厚感のある昔ながらの日本家屋だ。といってもこちらは一度リフォームしているので、外壁はきれいに塗り直されておりあまり古さは感じさせない。
チャイムを押すと引き戸が開き、真っ赤なアロハシャツにサングラスをかけた義父が顔を出した。
「アロハ〜菫ちゃん。今日もいい天気だね!」
菫は空を見上げた。曇天だ。しかも雨が降りそう。秋の空は変わりやすいのである。
しかし現実の天気など関係ないというように、義父の様子は見事なまでの晴れやかさだった。見ると壁際に、これ見よがしに巨大なスーツケースが置いてある。
「こんばんは。どこかお出かけですか」
聞かなくてもわかっていたが、聞いてほしそうなので一応、尋ねた。
「うん、ハワイにね、久しぶりに。お土産は何がいい? チョコレート? コナコーヒー? コナビールもいいよお」
「いえ、お構いなく⋯⋯」
苦笑いで返すと、義母が台所から出てきてパタパタと駆けてきた。
「誰かと思ったら菫ちゃんじゃないの。上がって上がって」
陽気な義父母に招き言えられ、菫は靴を脱いで上がった。
明日から二週間、ハワイに行くのだという。義父母はかなりの旅行好きで、臨床を離れてからはしょっちゅう家を開けている。連絡が来るのはたいてい当日の朝だ。
予約いっぱいのところに無理やり知り合いの予約をねじ込んでおいて気楽なものだ、と内心小言を言いたくなるがもちろんそんなことは口にしない。
距離感の近さに最初こそ戸惑ったものの、菫は彼らのそういうところが嫌いではなかった。息子がいなくなった後も、嫁に対して変わらず接してくれる人はそう多くないだろう。
一見お気楽な老後を楽しんでいるだけに見えるが、彼らもまったく仕事をしていないわけではない。地域密着の歯科医院として、数ヶ月一度、近隣の学校の歯科検診に出向いたり、知り合いの歯科医が開く講演会に出席したりしている。そういう社交性が必要なイベントは圧倒的に義父母のほうが向いているから、一応役割分担はできているのだ。
「それで、何か用だった? よかったら晩ごはん食べてく?」
義母がテーブルにお茶を用意しながら言った。
「いえ」
菫はやんわりと断わってから、本題に入った。
「遠野慎一郎さんという方をご存知ですか?」
「遠野さん?」
義母がキョトンとした顔をする。
「知らないわねえ。ねえあなた?」
「うーん、記憶にないなあ」
義父母は年齢こそ六十代後半になるが、記憶力は衰えていない。しばらく来院していない患者の名前でも、すっと出てくるから驚く。
「その方がどうかしたの?」
「いえ、県外からの患者さんだったので、もしかしたらお知り合いかもしれないと思いまして」
「そうなの。でも、知らないわねえ」
義母が首をひねる。本当に心当たりはなさそうだった。
その後、話題が来週末に予定されている町内会のゴミ拾いに移ったところで菫は立ち上がり、義実家をあとにした。
それほど期待していたわけではなかった。いくら義父母の記憶力がいいからといって、患者全員の名前を覚えているなど不可能だ。
ひょっとすると遠野が昔——五年以上前に——この辺りに住んでいて、来院したことがあったのかもしれない。それならカルテが残っていないことも、わざわざうちのような小さな医院に来たのも納得できる。まったく知らない歯医者で治療を受けるより、知っているところのほうが行きやすいと考えるのは自然なことだ。
しかし仮に遠野が過去に来院したことがあったとして、それが彼の歯が良平とそっくりなことの理由にはならない。
まず考えたのは、血縁上の繋がりだった。つまり、遠野が良平の兄ではないか、ということだ。
歯の形や生える位置などは、遺伝の影響を強く受ける。ほかにも歯列弓(上下の顎にある歯が作る馬蹄形またはU字型のアーチ状のカーブのこと)の幅や長さ、親知らずの有無やエナメル質の強さなど、親子や兄弟間で歯の特徴が似ることが統計的に示されている。
中でも有名なのが双子研究で、一卵性双生児の場合、遺伝子上の形成のほかに癖や食生活も似ることが多いため、一致率は格段に上がるのだ。
良平には五つ歳上の兄がいる。五十歳、遠野と同い年だ。しかし良平にもう一人兄がいるなんて聞いたことがないし、そもそも一卵性双生児でもないのに歯の形状がそっくりだなんて、やっぱりあり得ない、とすぐにその可能性を否定した。
まさか義父母に面と向かって、じつはもう一人子供がいるのではないですか、なんて尋ねるわけにもいかない。
大学の研究室にいる良平の兄に聞けば何かわかるかもしれないが、あいにく良平
そんなほとんど他人と変わらない相手にいきなり不躾な質問をしにいくのは、人見知りの菫にとっては義父母に尋ねる以上に難しいことだった。
日曜日は千代田の歯科医師会館で開催された研修会に出席した。研修会とは、新しい治療法や機器の情報を共有したり、症例発表を行う場だ。今日は医療機器メーカーが主催する実技講習も兼ねているらしい。
会場の大ホールには長テーブルがずらりと並び、すでに百人ほどが席を埋めていた。
「あっ、菫さん」
名前を呼ばれて振り返ると、よく知っている顔があった。
和田直人。医療機器メーカーに勤める、良平の部下だ。
仕事の関係者のほとんどは菫のことを「菫先生」と呼ぶが、和田は良平からの紹介で知り合ったこともあり、昔から「菫さん」と呼んでいた。
良平の口からしょっちゅうその名前を聞いていたので、相当かわいがっていたのがわかった。世話焼きの良平のことだ、新卒一年目で不慣れな部下を気にかけていたのだろう。
そんな和田も、いまでは父親になっている。十年ほど前に、結婚し女の子が産まれたとハガキをもらった。娘はそろそろ小学校に上がる年齢のはずだ。
「和田くん。こんにちは」
「今日はよろしくお願いします」
和田は機器のメンテナンスのため定期的に平川歯科医院にやってくるほかに、患者として時々検診にも来るので、個人的な付き合いはないけれど顔を合わせる頻度は高かった。
「そろそろ検診に行かなきゃなあ。またよろしくお願いします」
「ええ。お待ちしております」
和田と別れて、室内を見渡す。
そしてもう一人、見知った顔を見つけた。
「菫! 久しぶりー」
彼女も菫の姿を見つけるなり笑顔になり、手を振った。
村山梢江。菫の大学時代の同級生で、ゼミも同じだった。いまは総合医療センターの口腔外科で働いている。
梢江に会うのは久しぶりだった。何しろ多忙な大病院で働いているうえに、結婚して子供が三人いる。こちらからは誘いづらい。梢江はそんなこと気にせずに誘ってくれていいと言うけれど、子供がいない身としてはどうしても気にしてしまうものだ。
「元気にしてた?」
「うん。梢江は?」
「もー長男が反抗期で大変」
梢江は菫にとって、唯一友人と呼べる存在だった。
明るく屈託ない性格で、菫とはタイプが違ったが、お互い本好きで話が合ったのだ。
数年ぶりの再会でも、顔を合わせた途端に学生時代に戻ったような懐かしさを覚えた。
講師による新しい治療法の説明や症例発表の後、和田が前に立って最新医療機器の紹介をした。
最新の歯科医療機器には、口腔内をスキャナーやマイクロスコープ(治療用顕微鏡)による精密治療など、最新技術が次々と紹介された。
口腔内スキャナーとは口腔内をスキャンしてデータを取得する機器だ。それをもとに3Dプリンターで詰め物や被せ物を作り、従来のアルジネート印象材(歯科用語で印象という)による型取りは不要になるという。
マイクロスコープは肉眼の最大24倍まで視野を拡大し、精密な治療を可能にする。ミラーの角度やライトを照らす位置を駆使して、目視のみのあやふやさがなくなり、高精度かつ安全な治療ができる。
正確さと早さが期待でき、患者の負担も軽減できる。夢のような技術だが、その分高額な費用やメンテナンスなどのコストがかかるので、小さな医療機関での実用はなかなか難しい。
——うちには当分、縁のない話だろうな。
最新技術に感心しつつもそう思いながら、話半分で和田の熱弁を聞いていた。
休憩を入れて三時間にわたる研修会が終わると、外は五時、すでに日が落ち始めていた。
梢江と一緒にホールを出ようとしたとき、肩をポンとたたかれた。肌が黒く髪はパーマで眉が鋭角な、見るからにチャラそうな男が立っていた。スーツ姿だが、そのままサーフボードを持たせてもまったく違和感がない。
「平川さん、久しぶり。村上はこの間の講演会ぶりだな」
「はあ」
菫はあいまいにうなずいた。
菫と梢江のことを知っているということは、大学時代の知り合いなのだろう。しかしすぐには誰だかわからなかった。
「その顔は俺のこと忘れてるな。船戸だよ。同じゼミだったの覚えてない?」
船戸——たしかにそんな名前の男がいたのはうっすらと覚えている。当時からあまりいい印象はなかったことも。
「この後時間ある? よかったらどっか……」
「ごめんなさい。お店二人で予約してるので」
菫は頭を下げて足早に歩き出した。
「断るスピードは相変わらずだねえ。せめて誘い文句ぐらい最後まで聞いてあげたらいいのに」
歯科医師会館を出て通りを歩きながら、梢江が感心するように言う。
「で、どこも予約してないけど、どこ行く?」
梢江が笑いながら言って、菫はようやく眉間のシワを緩めた。
お腹が空いていたのでスマホで検索する間も惜しく、通り沿いの焼き鳥屋の匂いに誘われるようにのれんをくぐった。
「船戸、最近離婚したみたいよ。女癖の悪さは相変わらずらしいから、奥さんに逃げられたんだろうって噂」
「懲りないね⋯⋯」
菫はビールグラスに口をつけながら苦笑した。そういえば学生時代もよくゼミの女の子と揉めていたな、とようやく昔の記憶が蘇ってくる。
「あれはもう病気でしょ。歯科医はチャラいって言われるけど、ああいう男が偏見を上塗りしてると思うね」
梢江が呆れ顔で言いながら砂肝を頬張る。
「まあ船戸はああいうヤツだからいいとして。菫のほうはどうなの」
遠巻きな言い方だが、言わんとすることはわかった。
「どうって、何も変わりないよ」
遠野の顔が頭に浮かぶ。昨日からずっと、焼きゴテを押しつけられたように、あの光景が離れない。
「まあ、いまもあそこにいるってことは、そうなんだろうけど。そろそろ別の人生を考えてみてもいいんじゃないの」
別の人生。そんなものが自分にあるのだろうか。
十五年間行方不明の夫のことを忘れて、あの家からも離れ、まったく違う生活を送る——。
「そうね。そういう道もあるかもしれない」
梢江が意外そうに目を見開く。
でも、と菫は続けた。
「その前に、けじめをつけておきたいの」
