(四)
次の日曜日、菫は六時にセットしたアラームが鳴る前に目を覚ました。朝食をトーストとコーヒーで軽く済ませ、出かける支度をする。
夜中、うつらうつらと考え事をしていたせいであまり熟睡はできなかったが、多忙で寝不足がちになるのはいつものことなので慣れている。
新幹線のチケットは事前にネットで購入しておいた。
住所を書いたメモを確認する。行き先は名古屋。遠野慎一郎の家だ。
一週間前に遠野がやってきたとき、コピーした保険証から、ひそかに住所をメモしておいたものだ。
医療関係者が勝手に患者の個人情報を外に持ち出し、直接住居を直接尋ねるなど絶対にあってはならないことだ。
普段、個人情報の取扱いについてはスタッフたちに口酸っぱく言い聞かせているのに、医者である自分がその掟を破ろうとしている。
しかし、菫にはどうしても遠野にもう一度会って、確かめたいことがあった。
遠野が来院して一週間、何度も考えたが、良平と何の関係もないとはもはや思えなかった。歯科医としての直感が、何かあると告げていた。
良平の両親にも兄にも尋ねることができないなら、こちらから会いに行くしか確かめる方法はない、と覚悟を決めた。
菫が住んでいるマンションは、日暮里駅のすぐ近くにある。
駅の近くに商店街や繊維街などがあり、休日は観光客で賑わう。昔ながらの雰囲気が残る、のんびりとした街並みだ。
良平と籍を入れて住み始めてから十七年、同じ場所に住み続けている。2LDKの間取りがちょうど良く、駅にも近い。医院までの行き帰りは都営バスを使っているけれど、不便さは感じていなかった。
ここにいればいつか良平がひょっこり帰ってくるかもしれない、などと信じているわけではないが、それでもわざわざ別の場所に引っ越す理由もなく、
この部屋に良平の遺影はない。遺骨もない。行方がわからないのだから当然だ。
十五年間、夫がいなくなった悲しみをどこにやればいいのかわからなかった。
『七年経ったら、配偶者は失踪宣言を出せるんだよ』
以前、梢江にそう言われたことがあった。
失踪宣言。行方不明になった人が、生死が不明なまま七年が経つと、法律上死亡したとみなされ死亡届けが提出できるようになる。
『知ってる。でも、もう少し待ちたいの』
『そう。菫がそうしたいならいいけど……』
梢江が友人として心配して言ってくれているのはわかっていた。
でも、行方がわからないということは、もしかしたらいまもどこかで生きているのではないか。
そのわずかな可能性を、どうしても捨てることができなかった。
そんなとき突然現れた、良平とよく似た歯を持つ男。
やっと見つけたわずかな手がかりだ。もしかしたらあの遠野という男が、良平について何か知っているのかもしれない。
新幹線に乗り、駅で停車するたび、胸が逸るのを感じた。
名古屋で新幹線を降り、JRに乗り換えて金山駅に向かった。
遠野の家は金山駅付近、日曜日とあって駅の中も外も、人が溢れていた。駅前の広場にテントが並び、野菜市やワゴンのコーヒースタンドなどが並んでいる。
時間があったら後でちょっと覗いていこう、と後ろ髪を引かれつつ、メモの住所を探して歩く。名古屋の地理には詳しくないので、もっぱら地図アプリ頼りだ。
賑やかな駅前を少し離れるとスーパーや公園があり、住宅街にさしかかった。
——ここだ。
遠野の家は、公園の目の前にある白い二階建てだった。いまどきのタイル張りで、屋根のない長方形のシンプルな建物、バルコニーは広く、人工芝の敷かれた庭と二台分の駐車場があった。駐車場に車は停まっていなかった。
チャイムを押してみたが、返答はない。
どこかに出かけているのだろう。菫は公園のベンチに腰を下ろして、文庫本を読むふりをしながら、この一週間何度も頭を巡らせた疑問について考えた。
遠野は保険がきかない県外で、わざわざ高い診察代を払って治療を受けた。たしかに虫歯はあった。しかしどう考えても、それほど緊急性がある症状だとは思えなかった。
それならなぜ、うちの医院にやってきたのか。
何か目的があったなではないか。
もしかしたら、自分に会いにきたのではないか。
いったい何のために?
堂々巡りだった。考えていても仕方がない。やはり直接会って確かめなければ。
「こんにちは。いい天気ですねえ」
突然声をかけられて、肩を振るわせた。
見上げると、犬を連れた年配の女性がニコニコと笑みを浮かべている。薄茶色の中型犬で、大人しそうな犬だった。
「ええ。お散歩ですか」
犬の散歩中ということは、近所に住んでいるのだろう。
見知らぬ人に自ら声をかけるのは気が引けるが、そちらから声をかけてきたのだから急いでいるわけではなさそうだ。
あの、と意を決して
「私、東京で歯科医をしている平川菫と申します」
嘘を言えば怪しまれるだろうと思い、正直に名乗って名刺を差し出した。
「突然ですが、遠野慎一郎さんという方をご存知でしょうか」
「遠野さん? 知ってるも何も、うちのお隣さんよ」
女性は目を丸くして言ったが、菫も驚いていた。いきなり隣人に出くわすとは思わなかった。
「本当ですか」
「遠野さんがどうかしたの?」
女性の目がいかにも興味津々というふうにキラリと光った。
怪しまれてはいけない。でも、どうすれば怪しまれずに遠野のことを聞き出せるだろうか。
「じつは先週、遠野さんが緊急でうちの医院に治療にいらしたときに記載違いがあったようで……失礼ですが、遠野さんはずっとこちらに住んでいらっしゃるのでしょうか」
言いながら、東京の歯科医が記載違いくらいでわざわざ直接名古屋までやってくるというのはどう考えてもおかしいだろうと突っ込みを入れたくなる。
しかし名刺を渡したのがよかったのか、あるいは単におしゃべり好きなのか、女性はとくに警戒することもなく話してくれた。
「遠野さんはね、五年前くらいに引っ越してきたのよ。息子さんがまだちっちゃい頃でね、それはもう可愛かったんだから」
女性は、その息子がいかに可愛らしいかを孫の自慢でもするように嬉々として語った。
結局、わかったのは遠野一家が五年前からここに住んでいること、小学生の息子がいること、それくらいだった。
「朝家族で出かけたみたいだけど、いつ帰ってくるかわからないわよお。何か伝えておきましょうか」
犬の頭をなでながら、親切に申し出てくれる。
「いえ、大丈夫です。夕方、もう一度伺ってみようと思います」
お礼を言ってその場を立ち去った。
さて、夕方まで時間が空いてしまった。どこで時間を潰そうと駅の周辺を歩いていると、名古屋で有名な喫茶店を見つけた。東京にもあるが、入るのは初めてだった。レンガ造りの建物、扉を開けると、明るい照明と愛想のいい店員に出迎えられた。
昔ながらの喫茶店を思わせる赤いソファに腰かけ、ホットコーヒーを注文する。
「モーニングはどうしますか?」
そうだ、まだモーニングの時間だった。名古屋のモーニング文化で、コーヒーにトーストがついてくるのだ。
朝朝でトーストを食べたけれど……と思いつつ、断るのももったいないと思い、トーストとゆで卵を注文した。
少しして、かごに入った半切りのトーストとゆで卵が運ばれてきた。厚みがあり、柔らかい。家で焼くトーストとは別物だった。
ホットコーヒーを飲み、ふうと息をつく。なごんでいる場合かと思いつつ、いないのだから仕方ないと割り切って、小説を読み、コーヒーをおかわりして過ごした。
さすがに一日中居座るのは迷惑だろうと夕方までマンガ喫茶で時間を潰し、日が落ち始めたころに再び公園に戻った。
まだ駐車場に車はなかった。もし泊まりでどこかに出かけていたとしても、日曜だから夜には帰ってくるだろうと踏んでいたのだが……。
夕暮れの公園で、木陰に身を潜めている女。側から見れば明らかに怪しいだろう。そろそろ諦めて帰ろうかと思いかけたとき、一台の車がやってきた。
一週間前、遠野が医院に来たときと同じ白い車だった。
自然と鼓動が速まるのがわかった。
車は遠野の家の駐車場にバックで入り、扉が開いた。
姿を見たからといってどうなるわけでもないのに、思わず鼓動が早まった。
運転席から遠野が降りてきて、後部座席の扉を開けた。助手席から遠野の妻らしき女性、後部座席から小柄な男の子が降りてくる。
買い物の帰りらしく、遠野は袋を手に持っている。
夕暮れの中、三人は楽しそうに笑いながら家の中に入っていった。
映画のワンシーンを見ているようだった。
立ち上がり、向かおうとした足を止めた。
自分はいったい、何をしようとしていたのだろう。
突然家のチャイムを押して、お尋ねしたいことがあるのですが、と言う。間違いなく不審がられるだろう。
私の夫を知っていますか。どのような関係でしょうか。
もし遠野が良平のことを知っていたとしても、家族に隠しているという可能性もある。そのことを自分は知らせに行こうとしているのだ。
やましい関係があるわけではない。けれど、自分が尋ねていくことで彼らにどんな影響があるのか、今の今まで思いもしなかった。
——私が欲しかったもの。そして、どんなに求めても、もう手に入らないもの。
行けない、と思った。あの幸せそうな家族に、自分の行動がヒビを入れてしまうかもしれない。そんなことはできない。
『そろそろ別の人生を考えてみてもいいんじゃないの』
友人の言葉が、言われたときより重く、心に響く。
もうずっと前から、諦めたかったのかもしれない。
待つことに疲れて、諦めるきっかけがほしかっただけなのかもしれない。
——私にできることは、何もない。
それを知るために、ここまで来たのかもしれない。
菫はその家に背を向けて、公園を後にした。
