(八)
遠野の妻が昔、平川歯科医院で働いていた……?
こんな偶然、あるだろうか。
ホームページに載っている過去の写真を見てみたが、当然、そんな昔の写真が残っているはずもない。そもそも、辞めたスタッフのデータはその都度消すことになっている。
岩沼によると、小百合が歯科衛生士として働いていたのは、二十年前のこと。
当時は二十代半ばだったという。
『辞めた後のことは知らないわねえ。院長先生なら知ってるんじゃないかしら』
岩沼は首を傾げていた。
その日の夜、医院のそばにある義父母の家を訪ねた。
「今田小百合さん? ああ、いたわねえ」
義母はすぐに思い出したようで、うなずいた。
「仙台の人と結婚するっていうんで、辞めたのよ。元気にしてるかしらねえ」
「昔の写真とか、残っていますか?」
「どうだったかしらねえ……あるとは思うけど」
義母は押し入れから昔のアルバムを数冊取り出して、見せてくれた。
「ああ、あった。この人よ」
毎年、新年の仕事始めに全員で集合写真を撮ることになっている。開設以来、欠かさず続けているという風習に感謝した。
黒髪で、料理教室のホームページに載っていた写真よりも小柄に見えるが、二十年が経っても、健康に気を遣っているからなのか、それほど老けている印象はない。
「どんな人でしたか?」
「そうねえ。器用な人だったわよ。覚えも早くて、患者さんからの評判もよくてねえ」
「そうですか」
言いかけた言葉を、あと少しのところで飲み込んだ。
「この写真、お借りしてもいいでしょうか」
尋ねると、さすがにおかしいと思ったのだろう。義母は訝しそうに眉を寄せた。
「……彼女がどうかしたの?」
「いえ、少し気になることがあったもので」
義母に言うことはできなかった。
喉まで出かかった言葉。
——良平とは、どういう関係でしたか。
考えたくはなかった。
しかし、無視することもできなかった。
二十年前——良平は大学を卒業し、医療機器メーカーに就職したばかりの頃。
菫と良平が出会う前のことだ。
新人の良平と、良平の両親が院長を務める歯科医院の衛生士。
関係があったかどうかはわからないが、顔を合わせる機会くらいはあっただろう。
良平と小百合は、以前から面識があったのだ。
もしかしたら、顔見知りというだけで何もなかったかもしれない。
でも、もし、それ以上の関係があったら……。
嫌な妄想に、歯止めをかけた。
いまさらそんなことを考えても、仕方ない。
二十年前のことだ。
彼女は結婚し、子供もいるのだ。
自分はあのとき、見たではないか。遠野と妻と息子の姿を。
どこにでもいる、幸せそうな家族の姿を。
それなのに、あるはずのない考えが頭にちらつく。
——彼女は結婚したのではなく、良平と一緒にいなくなったのではないか。
違う。違う。違う——
それでは遠野の妻は、あのホームページの女性は、誰だというのか。
何人もの女性の顔が浮かび、パズルが散らばるように形を失っていく。
彼らの嘘が、見えそうで見えない。
稔との秘密のやりとりは、それからも続いた。
電話をかけるのは稔のほうから。番号は登録してあるが、こちらからはかけないことにしている。
『平川さんは、なんでうちにきたの?』
稔は口ごもりながら、そう言った。
遠野が来院したことは、守秘義務があるので、どうしても必要がある場合以外は話すことができない。たとえ相手が家族であっても、子供であっても。
「仕事のことで、お父さんに聞きたいことがあって。でも、そのことはもう解決したの」
少し無理があるかと思ったが、稔は信じたのか信じていないのか、声を落として、そう、とつぶやいた。
「あのね、稔くん」
菫は言った。
「もしよかったらだけど……私にも協力させてくれないかな」
それは一週間前に稔の話を聞いて以来、考えていたことだった。
「仙台に、行ってみようと思うの」
電話の向こうで、稔がえっ、と声を上げた。
「……なんで?」
稔は困惑したように言う。心配そうでもある。
自分で言っておきながら、さすがに怪しいだろうと思った。
見ず知らずの女が、自分の家のことを調べている。そればかりか、会いに行けない自分の代わりに、祖父母に会いに行くと言い出した。
不審に思わないほうがおかしい。自分が稔の立場なら、もう関わるのはやめておこう、と思うだろう。
何しろ、会ったこともない子供の願いを聞いて、その祖父母に会いに行こうというのだ。
「正直に言うわね。これは稔くんのためというより、自分のためなの」
『どういうこと……?』
電話の向こうにいる少年の困惑ぶりがさらに深まるのが目に見えるようで、菫は苦笑しながら続けた。
「私の夫はね、十五年前に仙台に行ったきり、行方不明なの」
十五年前のあの日——私は出張に行く良平をいつものように玄関で送り出した。
『じゃ、いってきます』
『いってらっしゃい』
いつもと同じように——でも、その朝、言わなかったことがあった。
“気をつけて行ってきてね”
何気ない言葉だが、出かける相手にその言葉をかけることで、実際に事故が減るという話を聞いたことがあった。
それを知って以来、出張の日は決まって良平に『気をつけてね』と声をかけて送り出してきた。
だが、その日はどうしてか、言わなかったのだ。忙しかったのか、忘れていたのか、思い出せないのだが、何度思い返しても言った記憶はなかった。
そして、良平はそれきり帰ってこなかった。
“気をつけて”と言わなかったから、帰ってこなかった。そんなはずはないとわかっている。けれど言わなかったことが、その後十五年、菫を苦しめた。
あの日、あの言葉をかけていたら、良平はいまもここにいたのではないか——この部屋で、笑っていたのではないか。そう考えてしまうのだ。
仙台は、良平がいなくなった場所。
十五年間一度も訪れることができなかった。
行こうとしたことはあった。だが、そのたびに、結局たどり着けずに引き返してしまうのだった。
建物を見れば、ここに良平が下敷きになっているかもしれないと考えてしまうだろう。
海を見れば、この海に良平が飲み込まれたかもしれないと思うだろう。
実際に目にしなくても、想像するだけで恐ろしかった。
逃げていたのだ。十五年間ずっと。
そこへ行くのは、逃げ続けてきたことに向き合うことでもあった。
けれど、ほかの場所なら、きっとわざわざ、自分とは何の関係もない老夫婦に会いに行こうとはしなかったはずだ。
稔は、菫の話を黙って聞いていた。相槌はなくとも、真剣に耳を傾けているのがわかる。
「そういうわけだから……稔くんがよければ、おじいさんとおばあさんに会いに行かせてほしい」
電話を切った後、空腹を感じて冷蔵庫を開けた。
玉ねぎを千切りにし、油をしいてフライパンでさっと炒める。具材がしんなりしてきたら牛肉と合わせて、水を入れてよく煮込む。
ハヤシライスは、よく作るメニューの一つだった。トマト缶とケチャップ、コンソメとソースを混ぜて煮込むハヤシライスは良平が大学生の頃よく作っていたらしく、菫はいまでもよく作る。
懐かしんでいるわけではなく、簡単で、たくさん作っておいて冷凍しやすいからだ。
それでも、そのシンプルで濃厚なソースの匂いは、良平と過ごした時間を無意識に呼び起こす。
『疲れてても、これだけはなんでか作る気になるんだよな』
『そういえば、ハヤシライスってあんまり家で食べたことなかったかも』
何度か一緒に作っているうちに、自然と同じ味につくれるようになった。
『よし、じゃあ、これを我が家の味にしよう』
良平が笑ってそう言ったとき、ごく自然に、この人とずっと一緒にいるのだろう、と想像した。
良平も同じ気持ちだったはずだと、これまでずっと信じていた。
もしかしたら、そう信じていたかっただけかもしれない。
良平はそうではなかったのかもしれない。
結婚して仙台に行った小百合。
仙台に行ったきり行方不明の夫。
もし、良平が帰れなくなったのではなく、自分の意志で出て行ったのだとしたら——。
まだ答えは出ていない。
自分の知らなかったことが、そこへ行けばわかるような気がした。
