(八)
「菫先生?」
名前を呼ぶ声にハッと我に返った。
目の前には心配そうな目を向ける日向子が立っている。
「ごめんなさい。何だった?」
「さっきの患者さんのことなんですけど……」
カルテを見ながら指示をする。
「大丈夫ですか? やっぱり和田さんのことが……」
「いえ、大丈夫。心配かけて悪いわね」
菫は苦笑しながら答えた。
仕事には支障が出ないよう気をつけていたつもりだったが、スタッフに心配されてしまうとは情けない。
しっかりしなければ、と気を引き締める。しかし、頭の中ではあの少年——遠野の息子の言葉がいつまでもこびりついていた。
『ぼくも、知りたいんです。ぼくの家族のこと』
ある日を境に、侵食する影のように自分の日常に入り込んできた遠野という男。
その男の子供が、自分の家族のことを知りたいと言う。
家族のことが知りたいのなら家族に聞けばいい。
そうしないのは、聞いても望んだ答えが得られないからだろう。
それに、亡くなった和田と遠野の関係も気になる。
和田の殺害事件は、連日ニュースで取り上げられていた。
知人の顔を何度もテレビ越しに目にしても、それが実際に起こったことだという現実感が乏しかった。
しかし、紛れもなく現実なのだ。
和田の妻、愛美とはあれ以来、頻繁に連絡を取り合う仲になった。
愛美は普段はスーパーのレジ打ちをしていて、人当たりのいい性格なのだろうと窺えるが、いまは仕事を休んでいるらしい。
子供の用事以外は外に出る機会もなく、人間不信気味だとこぼしていた。
夫があんな目にあったのだから無理もないと思った。
行方不明とはいえ、同じく夫を失っている菫が相手だからこそ、話しやすい部分もあるのかもしれない。
和田に関するニュースは、動きがないのか、一週間もすると目にする回数がぐっと減った。
遠野の息子から電話がかかってきたことは、言ったほうがいいのだろうか。
声しか知らない相手だが、まだ幼さの残る少年までもがこの混沌の中に巻き込まれると思うと、気が進まなかった。
いや——もしかしたら、もうとっくに巻き込まれているのではないか。
少なくとも、何か気にかかることがあるから、わざわざ番号しか知らない菫を頼ってきたのだ。
数日前、稔は公衆電話から菫の携帯電話に電話をかけてきた。そのときは両親が家にいたのだろう。長くは話せず、家の番号を聞くことしかできなかった。
休みの日に必ずこちらからかけると約束して、電話を切ったのだった。
菫は、問診票に記されていた嘘の番号ではなく、稔から直接聞いた電話番号に電話をかけた。
ただ番号を押すだけなのに、緊張で手が震えた。
木曜日は学校から帰るのが早く、三時にはいつも家にいると言っていた。その時間は大抵一人だからと。
『もしもし、遠野です』
稔の声が聞こえた。
「こんにちは。平川です」
そう言うと、稔はホッとしたようだった。その様子から電話を待っていたのだろうとわかる。
いったい何がこの少年の心に不安を落としているのだろう。
菫はまず、自分の名前と、東京の歯科医院で歯科医をしていることを伝えた。
「稔くんは、どうして私に家族のことを聞こうと思ったのかな」
子供の患者に尋ねるときの口調で、そう尋ねた。
稔は何か迷うように口ごもりながら、答えた。
『お父さんとお母さんが、ぼくに嘘をつくから』
「どんな嘘?」
『お父さんは、ぼくのおじいちゃんとおばあちゃんは死んだっていうんだ』
「稔くんのおじいちゃんとおばあちゃんは、お元気なの?」
『うん。元気。電話でも話したし、ハガキも送ってくれたよ』
稔の話を聞いて驚いた。
あるとき、稔は父親の部屋の本棚から、祖父母の名前と電話番号が書いてあるメモを見つけた。
それまで稔は、自分にはおじいちゃん、おばあちゃんと呼べる人はいないのだと思っていた。両親からそう聞いていたからだ。
でもそこには、『遠野』という名字が書いてあった。
名前が同じというだけだが、きっと祖父母の名前だろうと思った。
自分にもそう呼べる存在がいたことがただ嬉しくて、家の電話から電話をかけてみた。
電話には祖父が出た。
『慎一郎の……そうか、八歳かあ……』
祖父は声に涙を滲ませて稔からの電話を喜んでくれた。それから祖母にも代わり、話をした。
『電話をかけたことは、お父さんとお母さんには内緒にしておいてね。私たち三人の秘密よ』
電話を切るとき、祖母はそんなことを言った。
『うん。わかった』
稔はそう言ったが、どうして言ってはいけないのかわからなかった。
それで、それとなく父親に祖父母について尋ねてみた。
『おじいちゃんとおばあちゃんは、事故で亡くなったんだ』
稔が祖父母に電話をかけているとは知らない父親は、稔にそう告げた。
ますますわけがわからなかった。
父は祖父母は死んだと言う。
その祖父母は生きていて、電話をしたことは言うなと言う。
お父さんは、おじいちゃんとおばあちゃんと仲が悪いのかもしれない。
だから話をしたくないのかもしれない。
でも、稔はそれまでいないと思い込んでいた祖父母がいたのが嬉しかったし、もっと話したいと思った。
それから、祖父母と稔の秘密のやりとりが始まった。
祖父母に聞いた住所宛に手紙を書いた。
自分の住所欄には、自宅ではなく隣のおばさんの住所を書いた。
おばさんに訳を話すと、同情してくれ、うちの住所を書いてもいいと言ってくれた。
それから稔は、学校が終わると、隣のおばさんの家に行き、手紙が届いていないか訊ねるようになった。
稔と祖父母の秘密のやりとりは、半年前から続いているという。
『ぼく、おじいちゃんとおばあちゃんに会いたい。なんでお父さんとお母さんが嘘をつくのか知りたい』
それは、幼い少年の切実な願いだった。
八歳の少年が遠くにいるおじいちゃんとおばあちゃんに会いたいと思うのは、自然なことだろう。
いくら仲が悪いからといって、死んだなんて嘘をつくだろうか。
もう一つ、気になったのは祖父母の住所だ。
祖父母の家——つまり遠野慎一郎の実家は、仙台にあった。
そして仙台は、良平が仕事で頻繁に行っていた場所だ。
これは偶然なのだろうか。
菫は、自分とこの家族が、何か見えない糸で繋がっているように感じた。
その糸を辿れば、何か別のことが見えてくるのだろうか。
菫は稔に、また連絡すると伝えて電話を切った。
遠野は問診票に嘘の電話番号を書いていた。
さらに息子にまで嘘をついている。
嘘をつくのは、何か知られたくないことがあるからだ。
でも、知られたくないなら、どうしてわざわざ自分の前に現れたりしたのか。
捉え所のない遠野という男の存在が、ますます不気味に思えた。
遠野慎一郎のことは、いくら調べても何もわからなかった。
しかし、何も収穫がなかったわけではない。
『遠野小百合』
稔に聞いた母親の名前を検索してみると、ヒットしたのだ。
名古屋で料理教室の講師をしているらしい。
料理教室のホームページに顔写真が載っていた。
ウェーブのかかった肩までの焦茶色の髪。目が大きく、スッキリとした美人顔だ。年齢までは書いていないが、四十代半ばくらいだろうか。
この女性を知っている、と菫は思った。
遠野の歯を見た時のような、はっきりとした既視感ではない。
しかし、どこかで見たことがあるような気がするのだ。
どこかで会ったことがある?
名古屋で料理教室の講師をしている女性と歯科医の自分が会うことがあるだろうか。
念のため、医院でカルテを探してみたが、『遠野小百合』という名前の女性のカルテは見つからなかった。
もしかすると結婚前、旧姓のときに会っているのかもしれない。
息子が八歳だから、結婚前となると十年以上前だろうか。
カルテの保存期間は五年。それ以上前のものは破棄する決まりになっている。
手がかりはなかった。
菫が平川歯科医院で働き始めたのは、十七年前。
仕事以外で関わりのある人間は、学生時代の付き合いを除けばごくわずかだ。会っているとすれば、仕事関係だと考えるのが自然だろう。
だが、どうしても思い出せない。
「岩沼さん、ちょっといいですか」
午前の診療が終わり、昼休憩に入る前。
歯科衛生士の岩沼に声をかけた。
「はいはい、何かありました?」
岩沼が気さくな様子で言う。
岩沼は勤続三十年以上の歯科衛生士だ。
最近物忘れが多くて……と度々ぼやいているが、ベテランなだけあって患者の顔と名前はよく覚えている。頼りになるスタッフの一人だ。
自分は覚えていなくても、もしかすると彼女なら、と思ったのだ。
仕事とは関係ないんですが、と前置きして尋ねた。
「遠野小百合という女性をご存知でしょうか」
唐突な質問に、岩沼はきょとんと目を瞬かせた。
「遠野……? 知らないわねえ」
それもそうか、と気を落としかけたが、念のため、印刷しておいた顔写真をズボンのポケットから出して見せた。
「では、この女性に見覚えはありますか?」
「ううーん……?」
岩沼は首を捻ってしばらく考えていたが、あっ、と手を叩いた。
「ああ、思い出した。いたいた、この人」
「本当ですか」
望みが薄かっただけに、菫はつい前のめりになって尋ねた。
「なんていったかしらねえ……そうそう、今田さんだ。ここで働いてた人よ」
岩沼は懐かしそうに、そう言った。
