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『あなたのいるところ』第13話

2026年4月17日 投稿

(十三)

 月曜日の朝は忙しい。
 平日の中日より予約が集中するのだ。
 歯石の除去や歯磨き指導など、スタッフに任せられることはできる限り割り振り、十五分刻みで治療をこなし、午前の診療が終わるまで休みなく動き続けた。
 ようやく院長室でひと息ついたところで、昨日のことを振り返る。
 仙台で稔の祖父母に会ってからずっと感じていた違和感がまだ頭の隅に残っている。
 実際に会った遠野と、写真で見た若い頃の遠野の歯の形は明らかに違っていた。
 ただ、それは自分から見た印象に過ぎない。
 何がもっと、確信が持てる何かが隠れているように思うのに、その糸口がどうしても掴めない。
 その糸口が、良平につながっている気がしてならなかった。
「——先生、菫先生」
 ドアがノックされて、我に返った。
「技工士の羽山さんがお見えになっています」
「あ、ええ、ありがとう」
 スタッフにお礼を言って院長室を出た。
 診療室の入口で待っていた羽山が会釈をする。
「休憩中にすみません」
「いえ、大丈夫です」
「この患者さんなんですが、金属アレルギーで詰め物をセラミックか樹脂でとのことでしたよね」
 羽山が依頼書を見せながら言う。
 ——金属アレルギー。
 昨日も聞いた言葉に、頭の中で金属が弾かれるような感覚を覚えた。
 その直後、あることに気づいて愕然とした。
 どうして気づかなかったのだろう。
 ずっと感じていた違和感の正体は、これだったのだ。
「先生? どうかされましたか?」
 羽山が不思議そうに尋ねる。
「あ……ごめんなさい。そうですね。劣化が気になるので、セラミックでと聞いています」
 短いやりとりを終えると、羽山は素早く書類を片付けて帰っていった。
 菫は急いで院長室に戻り、デスクの引き出しからノートを取り出した。
 遠野が来院した日——
 レントゲンは撮らなかったので、記録は歯列表と、メモ代わりに書き留めておいたこのノートだけだった。
 年齢の割にはすり減りも少なく状態がよかったが、右下顎の奥歯に、過去に治療した跡が見られた。
 あったのだ。
 一つだけ虫歯の治療跡——金属の詰め物が。
 遠野は金属アレルギーだったはずだ。

 金属アレルギーは、原因となる金属(歯科金属やアクセサリー)を特定し、除去、または接触を避けることで症状が改善し、日常生活で問題ないレベルまで治療することができる。
 だが、一度体に記憶されたアレルギー反応が完治するのは難しい。治ったとしても、ふとした瞬間に反応が出ることもある。
 幼少期、遠野はわざわざ市内の大きい口腔病院で歯列矯正を受けたと言っていた。
 アレルギーがある人間が、金属の詰め物をするだろうか。
 アレルギー反応が出る可能性があるなら、避けるほうが自然ではないのか。
 だが、それはあくまで幼少期の話だ。
 大人になるまでに治療をしたということも考えられる。
 逸る気持ちを抑えるため、裏口の扉を開けて外に出た。
 車を十台ほど停められるそれほど広くない駐車場のフェンスに背中を預ける。スタッフは別に駐車場を借りているので、休憩中のいまは一台も停まっていない。
 三ヶ月前に見た監視カメラの映像を思い出す。
 ゆっくりとした足取りで歩き、院内へと入っていく遠野の姿。
 遠野がカメラを見上げる。不気味に目を細め、口角を上げる。現実にはそんなことはなかったはずなのに、一瞬、目が合ったように錯覚する。
 息を吐き、嫌な想像を頭から追い払う。履歴から番号を選択する。
 数回の呼び出し音が聞こえた後、遠野さんの旦那さんの声が聞こえた。
『ああ、平川さんですか。昨日はどうも』
「こちらこそ、突然の訪問を受け入れてくださりありがとうございました。それで、昨日のお話を聞いて少し気になったことがあるのですが……慎一郎さんは大人になってからも金属アレルギーはありましたか。子供の頃に治療したということはありませんか」
 一気にそう言った。返事がない。
『どうしてそんなことが気になるのですか』
 声に不信感が混じっている。
 当然の反応だ。しかし、こちらも簡単に引き下がるわけにはいかない。
「いえ、稔くんにアレルギーのことで相談を受けたので……参考にさせていただこうかと思いまして」
 不自然なのは承知でそう言うと、そうでしたか、と若干声が柔らかいだのがわかって胸を撫で下ろした。孫が絡むと判断が甘くなるらしい。騙しているようで気が引けるが、悪いことをしているわけではないのだから、と言い聞かせる。
『それで、金属アレルギーでしたか』
 古い記憶のふたを開けるようにゆっくりと言う。
『そうでした、そうでした。子供の頃にできる限りのことはやったんですがねえ。なかなか治りませんで、気をつけて生活はしてましたねえ」

 お礼を言って電話を切った。
 遠野の金属アレルギーは治っていなかった。
 大人になってからも極力アレルギーが出るようなことは避けていた。
 それなのに、金属の詰め物をするというのはどう考えても不自然だった。
 違和感が確信に変わった。
 あの男は、本物の遠野慎一郎ではない。
 間違いなく、別の誰かが成り代わっている。
 そしてその誰かは——
 そこにいるのは、十五年前にいなくなったはずの自分の夫なのだと。

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