(十四)
年が明け、院長、副院長を含めたスタッフ全員で記念写真を撮った。
院長が自前のカメラでタイマーを押し、早足で皆の前に移動する。
何十年も前から続いてきた、年始の恒例行事。
単なる写真だが、これを撮ると今年も一年頑張ろう、と気持ちが引き締まる思いだった。
少なくともこれまでは、そうだった。
しかしいまは、一年前と同じ気持ちにはなれなかった。
何もかも、変わってしまったのだと思った。
菫が就職する前、遠野小百合——旧姓は今田小百合——はこの医院で歯科衛生士として働いていた。
良平と面識があったのは間違いない。
スタッフと談笑していた義母が院内に入ったのを見計らって声をかけた。
「お義母さん、お聞きしたいことがあるのですが」
「え? なあに?」
最近では滅多に着ない白衣を羽織った義母がにこやかに答えた。
「以前ここで働いていた今田小百合さんという方のことですが、いまはどこにお住まいでいらっしゃるかご存知ですか?」
気のせいかもしれないが、わずかに義母の顔が強張ったように見えた。
「前も言ったと思うけど、知らないわ。辞めたスタッフとは連絡を取らないことにしているから」
「そうですか」
義母は訝しげな様子で私の顔を見たが、
「菫さん、写真の現像をお願いね」
とにこやかに言って院内へと入っていった。
——お義母さん。
その背中を見つめながら、菫は問いかけた。
あなたは良平がいまどこで何をしているか、本当は知っているんじゃありませんか?
もしかしたら、ずっと前から……。
ずっと、疑問はあった。
知らないうちにパソコンから消えていた良平のカルテのデータ。
消した覚えはなかった。
ほかのスタッフがわざわざそんなことをするとも思えない。
十五年前に行方不明になった良平が忍び込んで消した可能性もある。
だが誰かに見られる危険を犯してまでそんなことをするだろうか。
それなら、義父か義母のどちらかが消したということになる。
なぜわざわざそんなことを?
知られたら困ることがあったからではないか?
そして——可能性が高いのは、義母のほうだと思っていた。
まだすべて自分の憶測でしかない。
けれどもはや、ただの憶測とは言い切れない確信を抱いてもいた。
良平は生きている。
顔を変え、名前を変え、ここではない場所で、
まったくの別人として、いまも生きている。
しかし、それを問いただすのはもう少し後——
逃れようのない証拠を見つけてからだ。
自宅に帰ると、菫はすぐに電話をかけた。
「梢江、明けましておめでとう。子供たち大きくなったね」
梢江から送られて来た年賀状を見ながら菫は顔を綻ばせた。
可愛らしい干支のイラストが印刷された年賀ハガキには、幸せそうな家族写真が写っていた。
梢江の隣には温厚そうな夫、その前に中学生の女の子と小学生の男の子が並んでいる。
前に顔を合わせたときはまだ小学校に入ったばかりの頃だったが、ずいぶん背が伸びた。
『明けましておめでとう。そうそう、思春期真っ盛りで大変よ』
電話の向こうで梢江が笑う。
お互い仕事が忙しく、用事でもなければなかなか会う時間もとれないが、元気そうな様子に安心する。
しばらく近況報告をした後、本題に入った。
「梢江、船戸くんの連絡先って知ってる?」
『えっ』
梢江は意外そうに声をあげた。
『知ってるけど、なになに、どうしたの。菫から男の連絡先が知りたいなんて』
「たしか船戸くんは、歯科大学の研究室で働いてるのよね」
『……色気のある話ではなさそうね』
梢江は苦笑しながら言う。
『よく覚えてたね。たしかそうだったと思う。いまも変わってなければね。船戸がどうかしたの?』
「ちょっとね。そこの法歯学の研究室に繋いでほしい人がいて」
『なるほどね。わかった。聞いてみる……ちなみに誰なのか聞いてもいい?』
「ええ」
菫は息を吐いて、答えた。
「良平のお兄さん……平川良介という人よ」
電話を切ってから、机に置いた年賀状にふたたび目を落とした。
直接顔を合わせたことはないが、半年前にほんの一瞬だけ見た稔の姿と重なった。
良平の真実を知ることは、稔を傷つけることになるのかもしれない。
仙台に行ってから、稔とは一度電話で話していた。
稔の祖母は足を悪くしていたものの元気そうだったと伝えると、嬉しそうに話を聞いていた。
良平の真実を掘り返すことは、稔と祖父母の関係をも揺るがすことになってしまうかもしれない。
それでも——
『ぼくも、知りたいんです。ぼくの家族のこと』
初めて話したときに稔が言った言葉を、菫は信じることにした。
真実を求めた末にどんな結果が待っていたとしても。
——私も知りたい。
いま、あなたがいる場所を。
どうして、別人として生きることになったのかを。
あなたの妻として、知らなければならない。
「平川さん、こっちこっち」
大学の門の前で、船戸が手を振っているのが見えた。
船戸に会うのは去年の講演会以来、半年ぶりだ。
会ったと言っても、あのときは迷わず食事の誘いを断ったのだったが。
まさか自分から連絡することになるとは思いもしなかった。
大学はまだ冬休み期間だという。広い敷地内にはまばらに学生が行き来するだけだった。
「ごめんなさい。お休み中なのに呼び出してしまって……」
「いやいや、いいよ。大学は休みでも仕事はあるからね」
歴史を感じさせる煉瓦造りの建物が立ち並ぶ横を船戸が慣れた足取りで通り過ぎていく。
「平川教授とは義理のお兄さんなんだってね」
船戸が言った。
「そうなの。じつは結婚式のときに一度会ったきりだったんだけど、少し聞きたいことがあって」
「聞きたいことって?」
「夫の家のことで。あまり詳しくは言えないの。ごめんなさい」
「そうか……たしか旦那さんは震災で行方不明になったんだよな」
同期の間では知られていることなのだろう。
「十五年も経っても、まだ待ち続けているのか。それって、きつくないか?」
前は船戸のことを軽薄で信用できない男だと思っていた。
でも、いまは少なくとも、菫を心配してくれているように見える。
「わからない」
待っているのか、どうか。
もう一度、夫に会いたいかどうか。
「でも、はっきりさせたいとは思ってる」
「どういうこと……?」
船戸が首を傾げた。
菫が黙ると、
「相変わらずだなあ」
と言って苦笑をこぼした。
それから、奥まった場所にある、白い校舎に入っていった。
新しく増設された場所なのだろうか。
ほかの古い校舎に比べて、比較的新しいように見えた。
静かな建物の中に、コツコツと足音が響く。
薄暗い廊下を進み、「法歯学研究室」と札がかかった部屋の前で船戸が足を止めた。
「ここだよ」
船戸が言って、ドアをノックする。
はい、と中から声が聞こえた。
ドアが開く。
「平川教授、こんにちは」
背の高い男性が目の前に立った。
「ああ……」
男性は戸惑ったように菫を見て言った。
約束を取りつけるとき、船戸に頼んだことがあった。
『会いたがっているのが私だということは、できれば言わないでほしい』
無理なお願いだとは思ったが、船戸がうまく言ってくれたおかげで、ここに来ることができた。
「お義兄さん、ご無沙汰しております」
菫はそう言って、頭を下げた。
