8話
終業時刻のチャイムが鳴り、パソコンを閉じてふぅと息を吐く。重い腰を上げた先に見えたオフィスの風景は、心なしか少し淀んだ色で塗られているように思えた。
「お先に失礼しま~す──」
形式的な挨拶を済ませ、自席から歩き出す。だけど、その足取りはまるで足枷が付いているかのように重く、床を踏みしめている感覚も薄い。フワフワと不安定に浮いているような不気味な感覚。それでも私は、一刻も早くこの場から逃げたかった。
「はぁ~……今日は本当に最悪……」
一階へ下がるエレベーターに乗りながら、今日の出来事を回顧してみる。
自分が犯したとんでもないミスで、会社で大混乱を引き起こしてしまった。私に向けられた課長の冷ややかな視線が、まだ頭にこびりついて離れない。最終的には部長達の力もあって事無きを得たけど、そのせいで対応に追われた社員がたくさんいただろう。経理部はもちろん、総務部のフロアの前を通る時も、私に向けられる視線が刺すように鋭く見えて心が痛かった。
エレベーターが一階に到着し、扉が開く。中へ乗り込む社員を「すいません」と言ってかき分けながら、会社の外へ出る。沈みかける夕日に目を細めながら、重いままの足取りで帰宅の途に着いた。
しばらくは今日のミスを引きずりながら生活することになるだろう。まぁ、自分で蒔いた種なのだから仕方ないと分かってはいるけど、時間はかかりそうだと覚悟する。
そんなことを思いながら、トボトボとアスファルトの道を歩く。すると──鞄の中にしまっていたスマホが、通知音を鳴らして振動した。
ディスプレイが光るそれを取り出し、内容を確認する。マッチングアプリにメッセージが届いたことを知らせる通知だった。
「──よりにもよって、今?」
思わずそんな言葉が零れる。
今まで、仕事を疎かにしてまでのめり込んでいたマッチングアプリ。しばらくは本多さん含めて誰とも進展が無かった上に、あんな出来事が起こった後では、さすがの私も気分が乗らない。正直、一番良くないタイミングだった。
とは言え、メッセージを無視するわけにもいかず、久しぶりにアプリを開く。適当にあしらって、再び気分が乗るまで今回は放置でいいや。そう思って、未読メッセージをタップした、その時。
佐野 雄吾
差出人の名前を見て、思わずその場で立ち止まる。
「あれっ……この名前、前にどこかで……」
首を傾げながら、薄くなっている過去の記憶を引っ張り出す。佐野 雄吾……聞き覚えのある名前なのに、いまいち記憶のピントが合わない。
ところが──直後に送られてきた通知を見て、ぼやけていた景色が一気に鮮明になった。
[お誕生日おめでとうございます。]
そんなメッセージと共に添えられた、一枚の写真。花壇に植えられた花が、色鮮やかに映し出されている。素人の撮影技術とは思えないその写真と、花壇の奥に映る見覚えのある風景。
「……あっ」
その瞬間、バラバラだった記憶が全て繋がる。
思い出した。あれはたしか四ヶ月ほど前。消防士の海斗君や弁護士の本多さんよりも前に出会った、カメラが趣味と言っていた彼だ。花壇の奥に映っているのは、二人で行ったカフェの外壁。この写真は、その軒先に置かれた花壇のものだった。
そして──ここ最近マッチングアプリに時間を取られすぎて、自分の誕生日すら忘れていたことに、雄吾君のメッセージを見て気が付いた。話題に出したのかも覚えていないレベルだった自分の誕生日を、彼はしっかりと覚えていた。綺麗な花の写真も相まって、不思議と心が激しく揺れ動く。
「雄吾君……」
会話がつまらないと一度は切り捨てた彼。句点や読点もしっかり打ち込む生真面目さは、相変わらず健在だ。だけど──そんな彼に今、純粋に”もう一度会いたい”という感情が芽生えた。その気持ちが赴くままに、フリックする指を走らせた。
[わざわざありがとう。ごめんなさい、私ったら返信したつもりが送信できていなくて。今度また食事にでも行きませんか?]
咄嗟に出たあからさまな嘘。だけど、返信をしなかったという事実の辻褄を合わすのには、こう言う他に方法は無かった。
しかし──時間を置かずすぐに返ってきた返信は、彼らしいピュアな文面だった。
[仕事忙しかったり色々ありますよね……。僕も桜子さんとまた話したいと思っていたので、食事行きましょう!]
その言葉を見て、ホッと胸を撫で下ろす。ひとまず嘘だとはバレていないようだ。
彼の素敵な部分に、前回どうして気付けなかったのかと後悔する。詳しい日時は後から決めるとして、ここまで軌道修正できたことは大きい。再び歩き出した足取りは、心なしか会社を出た時より少し軽くなった気がした。
