8話
「まぁ、堅苦しい話はこれくらいにして──」
今枝さんはそう言いながら、一つ息を吐いてゆっくりと立ち上がる。
「コーヒー、淹れてくるわね。根岸先生はブラックでいい?」
「あっ、はい。ありがとうございます──」
閉めきっていた会議室から一旦出ていき、給湯室へ向かった。
一人きりで静まり返った空間で、これからのことを冷静に考えてみる。
ネクストという、脚光と歓声を浴びていた場所から、ネット配信のブライトへ出戻り。今枝さんのおかげで、首の皮一枚繋がったという状況だけど……漫画家として下降気味であるのは間違いない。チャンスを貰ったからには頑張りたい。だけど、一度落ちてしまった状態から再び這い上がるのは、相当な評価が必要だ。
何より……隣にはもう、柊太はいない。自分一人で、どうやってペンを握ったらいいものか──。そう考えながら未来を危惧していると、コーヒーカップを二つトレーに乗せて今枝さんが戻ってきた。
「そういえば、中学の同窓会行ってきたんでしょ? どうだったの?」
そう言いながら、カップを一つこちらへ手渡す。
「そ、それが──」
陽キャラが存在感を放っていた、地元の古民家カフェ。僕や柊太のことをろくに知りもしない奴らから手の平を返されたような反応をされ、挙句の果てには「ノリわりーな!」と舌打ちをされた。美味しかった料理を差し引いても、素直に「行って良かった」と言える内容ではない。
「気分転換どころか……かつて僕の漫画を馬鹿にしてきた連中と再会してしまったり、柊太との苦い思い出が夢に出てきたり、もう散々でしたよ」
受け取ったコーヒーをひと口啜り、ふーっと小さく息を吐く。
自虐的に放った感想に、今枝さんも「そう──」と言って思わず苦笑いを浮かべる。だけど、最悪な時間だったはずのその裏で、僕の心はずっと別の場所に囚われたままだった。
「柊太、亡くなる直前まで漫画のアイデアを書き続けていたんです。同窓会終わりに実家に帰って、久しぶりにあいつが遺したアイデアノートを見ました。まぁ、中身を読めてはないんですけど──」
彼の思考の残骸に触れることが怖くて、結局僕はそのノートをただじっと見つめることしかできなかった。五年経った今でも、形見として実家に眠っている。
ところが──僕がそう言った瞬間、今枝さんは「んっ?」と言葉を漏らし、口へ運ぼうとしていたコーヒーカップをピタリと止める。そして、そのままコーヒーカップをテーブルの上に置き、若干前のめりになりながら口を開いた。
「ちょっと待ってください根岸先生。奥田先生が、アイデアノートなるものを遺していたなんて初耳です。しかも、中身を見てないんですか?」
「はい。なんか、柊太の死を受け入れられていない気がして……それに縋るのは違うかなって」
他愛もない雑談として会話を切り出したつもりだった。しかし、今枝さんがこちらをまっすぐ見つめる視線には、鋭い光が宿っている。
「よく聞いて、根岸先生。そのノート、今すぐ読んでアイデアを形にしなさい。これは、あなたの担当編集者としての命令よ」
「えっ、でも──」
今枝さんのあまりの気迫に、思わず言葉に詰まる。身を乗り出した彼女の瞳には、言い訳など一切許さない冷徹なまでの真剣さが宿っていた。
「もし万が一、ブライトでの新連載も鳴かず飛ばずだった場合、私だけの力ではどうにもできなくなるかもしれません。最悪の場合、創冠社として根岸先生のサポート自体が難しくなる可能性だってあります……」
「そんな……! それは困ります! 僕は漫画を描き続けたいんです!」
「私だって、根岸先生には漫画を描き続けてほしい。だから、変なプライドは捨てて──漫画家としてもう一度大成できる道を選びなさい。奥田先生も、それを望んでるはずです」
「──!」
今枝さんは、いつだって優しい女性だった。漫画家側の立場に寄り添い、最善の道へ導いてくれる。ネクストの打ち切りが決まっても、せめてブライトで僕を残してもらえないか何度も上層部へ掛け合ってくれたことが、その証明だ。
そんな今枝さんが今、僕に初めて命令というワードを使った。まさに、背水の陣。今の僕に残されている選択肢なんて、そう多くはないのだと悟る。
「……分かりました。柊太のアイデアノート、中身を読んでみます」
「ありがとうございます。辛い気持ちはお察しします。私も強い言葉は極力使いたくないのですが……根岸先生の今後のキャリアが懸かっています。しくじってはならない大事な局面です。ここは、あなたのことを最も理解していらっしゃる、亡き奥田先生の力をお借りしましょう」
今枝さんのその言葉は、不思議とスッと腑に落ちた。
考えてみれば、そうだ。柊太だって、僕が漫画家として落ちぶれる姿なんて見たくないはず。ダメでしたで終わってしまったら……今度こそ僕は、天国の柊太へ顔向けできない。そう思うと、今まで抱き続けていた変なプライドは、どこかへ消えて無くなっていた。
二人の夢は、こんなところで終わらせるわけにはいかない。そう胸に誓い、僕は会議室を後にした。
