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『あなたのいるところ』第21話

2026年8月7日 投稿

(二十一)

「ご主人が、いなくなったんです。奥さん、何か知っていることはありませんか」

 刑事は言った。
 ご主人、と。
 その言葉を聞いたとき、ああ、まだあの人は自分の夫なのだと菫は思った。
 いなくなって十五年もの月日が経っていても、離縁の手続きをしていなければ、まだ夫婦なのだと。
 ならば、その後に続く“家族”とは、いったい何なのだろう。
 これまで夫婦だと信じていたものは、いつから家族ではなかなったのだろう。
 夫婦とは何なのだろう。
 どれだけ自問しても、一つだけはっきりしていることがあった。
 いま、彼にとっての家族は、一緒に暮らしているあの二人。
 小百合という女と、稔という息子だということだ。

「奥様。何か知っていることはありませんか」

 刑事はもう一度、念を押すようにそう言った。

 知りません。
 私は何も、知りません。

 そう言うことは簡単だった。
 本当のことを言ったら、どうなるだろう。
 私の夫は。
 あの少年は。
 どうなってしまうのだろう。
 ようやく真実に辿り着いたと思ったら、また姿を消した。
 いったいどこまで逃げるつもりなのか。
 同じことを繰り返すのか。
 叶うのなら、もう一度だけ、会いたかった。
 形だけでもいい。
 もう一度、“夫婦”として。

「半年前に一度だけ、会いました」

 刑事が驚いた様子で菫を見た。

「それはいつ、どこででしょうか」
「うちの医院に、患者として受診をしました。遠野慎一郎という別人の名で」

 それから刑事とともに医院に行き、半年前のカルテを差し出した。
 夫が現在名乗っている名前と住所。
 夫の歯列を記録したもの。
 この記録が、私が持っている、いまの夫の情報のすべてだ。
「ご協力ありがとうございます」
 菫は会釈をして刑事を送り出した。
 誰もいなくなった診療室を見渡す。
 半年前、自分は夫に会っていた。
 この診療室で。
 昔から人付き合いが苦手で、人の顔より口元を見る癖があった。
 自然と人の顔よりも歯の形や並び方で覚えるようになった。
 十五年経っても、どれだけ容姿を変えても変えられないもの。
 それは生まれ持った歯だ。
 あのときにはもう、ほとんど確信していた。
 私はこの男を知っている。
 何度か会ったことがある程度ではない。
 歯の形、並び方、その奥の感触まで、誰よりも知っている。覚えている。

 一つだけ、刑事に言わなかったことがあった。
 そして、菫はいまからそれを確かめに行こうとしていた。

 日曜日の夕方、スーパーで義母に会った。
 お義母さん、と声をかけると、義母はぎこちなく微笑んだ。

『菫さん、こんにちは』

 義父母の肩書きは院長と副院長だが、形だけで実務はほとんど菫に任せきりで、たまに顔を出して小言を言うくらいだった。
 それがここ最近はめっきり顔すら出さなくなった。
 それはいつからだったか。
 たしか——そう、和田がいなくなった頃からだ。
 その頃、彼らにとって何か変化があったのは間違いなかった。

 菫は義母が引いているカートの中身に目をやった。
 そこにあるはずのない物が入っているのに気づいた。
 ウインナーだ。
 義母は加工肉を毛嫌いしていて、いっさい口にしなかったはずだった。
 それなのに、どうしてそんな物がカゴに入っているのか。
 義父母以外の誰かが家にいるからではないか。

『それじゃあ、またね』

 義母はぎこちない笑みを浮かべたままそう言った。

『ええ』

 そのとき、確信した。
 良平はあの家にいる。
 警察はそう遠くないうちに居場所を突き止めるだろう。
 その前に、会っておきたかった。
 夫に会って、話をしたかった。
 たとえ見た目はもう、自分が知っている夫ではなくなっているとしても。

 菫は鍵をかけて医院を出た。

 医院から義父母の家までは徒歩十分もかからない。
 こんなに近くにいたのだ。
 もう怖くはなかった。
 半年前に一度会っているのだから。

 チャイムを押した。
 少し間があって、玄関の扉が開いた。

「菫さん? 何か……」
「失礼します」
 義母が言い終える前に、無理やり押し入った。
「ちょっとっ、勝手に入らないでちょうだい」
 その慌てぶりが、彼らがここにいるという確信を強くした。
 居間には義父がいた。
 義父は驚いたように菫を見上げ、逃げるように目を逸らした。
 挨拶もせずに部屋を突っ切る。
「何なのよ、人の家に勝手に入って! 出て行って!」
「人の家、ですか」
 必死の形相で止めようとする義母を突き飛ばした。
 義母は呆然と菫を見つめる。
「私はこの家も、自分の家のように思っていましたけど」
 家族との縁が薄かった菫を、義父母は自分の娘のように受け入れてくれた。

『いつでも来ていいからね』

 良平がいなくなった後もそう言ってくれた。だから縁を切らないまま、家族でいようと思っていた。
 けれど彼らにとって、私はとっくに家族ではなくなっていたのだ。
 この人たちにとっても、良平にとっても。
 それならもう、誰にも遠慮する必要はなかった。

 居間の奥にある扉を開けた。
 長年使われていなかったはずのその和室に、三人が座っていた。
 三人が菫を見上げている。
 菫は男の顔を見た。
 糸のように細い目。重たそうなまぶた。分厚い唇。
 一見、知らない男のようにも見えた。
 でも間違いようもなく、そこにいるのは自分の夫——いや、かつての夫だった。
 かつての夫が口を開けた。声を震わせながら名前を呼ぶ。

「菫」

 よろけるように立ち上がり、菫に縋りつく。
「お願いだ、見なかったことにしてくれ。息子がいるんだ」
 なんて情けないのだろう。
 これが十五年も待ち続けた夫の姿だなんて。
 この男は、この期に及んでもまだ逃げるつもりなのだ。
 やめて、と菫は顔を顰めて言った。
「稔くんはあなたとは関係ない。あなたたちのしたこととは、何も」
 菫ははっきりとその名前を口にした。
 稔は目を見開いて菫を見つめている。
 菫は稔を見て、一度うなずいた。
 そうよ——私が、あなたが電話で話していた相手。
 良平に視線を戻す。
「自分のしたことは自分で責任をとって。子供を巻き込まないで」
 良平は裏切られたような目で菫を見た。
「……君ならわかってくれると思った」
 口元に笑みを浮かべながらそう言った。
「だから会いに行ったんだ。君なら——菫なら気づいてくれると思ってた。でも、気づかなかった」
 体が離れ、ゆらゆらと揺れる。
「その程度なんだ。父さんと母さんはわかってくれた。守るって言ってくれたよ」
 この男が最後に頼ったのは親だった。
 自分の罪からも、家族からも、どこまでも逃げ続けた結果が目の前にいる男の姿だ。
 良平がいなくなったあの日、自分たちは夫婦ではなくなったのだ。
 良平がズボンのポケットから何かを取り出した。
 両手で肢を握りしめ、銀色に光る先端を菫に向けた。
 なあ——
 良平はにへらと笑いながら言った。

「わかってくれないなら、消えてくれよ」

「お父さんっ!」

 菫が目をつむった瞬間、稔が叫んだ。
 どさ、と畳の上に稔が倒れた。

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