(二十一)
「ご主人が、いなくなったんです。奥さん、何か知っていることはありませんか」
刑事は言った。
ご主人、と。
その言葉を聞いたとき、ああ、まだあの人は自分の夫なのだと菫は思った。
いなくなって十五年もの月日が経っていても、離縁の手続きをしていなければ、まだ夫婦なのだと。
ならば、その後に続く“家族”とは、いったい何なのだろう。
これまで夫婦だと信じていたものは、いつから家族ではなかなったのだろう。
夫婦とは何なのだろう。
どれだけ自問しても、一つだけはっきりしていることがあった。
いま、彼にとっての家族は、一緒に暮らしているあの二人。
小百合という女と、稔という息子だということだ。
「奥様。何か知っていることはありませんか」
刑事はもう一度、念を押すようにそう言った。
知りません。
私は何も、知りません。
そう言うことは簡単だった。
本当のことを言ったら、どうなるだろう。
私の夫は。
あの少年は。
どうなってしまうのだろう。
ようやく真実に辿り着いたと思ったら、また姿を消した。
いったいどこまで逃げるつもりなのか。
同じことを繰り返すのか。
叶うのなら、もう一度だけ、会いたかった。
形だけでもいい。
もう一度、“夫婦”として。
「半年前に一度だけ、会いました」
刑事が驚いた様子で菫を見た。
「それはいつ、どこででしょうか」
「うちの医院に、患者として受診をしました。遠野慎一郎という別人の名で」
それから刑事とともに医院に行き、半年前のカルテを差し出した。
夫が現在名乗っている名前と住所。
夫の歯列を記録したもの。
この記録が、私が持っている、いまの夫の情報のすべてだ。
「ご協力ありがとうございます」
菫は会釈をして刑事を送り出した。
誰もいなくなった診療室を見渡す。
半年前、自分は夫に会っていた。
この診療室で。
昔から人付き合いが苦手で、人の顔より口元を見る癖があった。
自然と人の顔よりも歯の形や並び方で覚えるようになった。
十五年経っても、どれだけ容姿を変えても変えられないもの。
それは生まれ持った歯だ。
あのときにはもう、ほとんど確信していた。
私はこの男を知っている。
何度か会ったことがある程度ではない。
歯の形、並び方、その奥の感触まで、誰よりも知っている。覚えている。
一つだけ、刑事に言わなかったことがあった。
そして、菫はいまからそれを確かめに行こうとしていた。
日曜日の夕方、スーパーで義母に会った。
お義母さん、と声をかけると、義母はぎこちなく微笑んだ。
『菫さん、こんにちは』
義父母の肩書きは院長と副院長だが、形だけで実務はほとんど菫に任せきりで、たまに顔を出して小言を言うくらいだった。
それがここ最近はめっきり顔すら出さなくなった。
それはいつからだったか。
たしか——そう、和田がいなくなった頃からだ。
その頃、彼らにとって何か変化があったのは間違いなかった。
菫は義母が引いているカートの中身に目をやった。
そこにあるはずのない物が入っているのに気づいた。
ウインナーだ。
義母は加工肉を毛嫌いしていて、いっさい口にしなかったはずだった。
それなのに、どうしてそんな物がカゴに入っているのか。
義父母以外の誰かが家にいるからではないか。
『それじゃあ、またね』
義母はぎこちない笑みを浮かべたままそう言った。
『ええ』
そのとき、確信した。
良平はあの家にいる。
警察はそう遠くないうちに居場所を突き止めるだろう。
その前に、会っておきたかった。
夫に会って、話をしたかった。
たとえ見た目はもう、自分が知っている夫ではなくなっているとしても。
菫は鍵をかけて医院を出た。
医院から義父母の家までは徒歩十分もかからない。
こんなに近くにいたのだ。
もう怖くはなかった。
半年前に一度会っているのだから。
チャイムを押した。
少し間があって、玄関の扉が開いた。
「菫さん? 何か……」
「失礼します」
義母が言い終える前に、無理やり押し入った。
「ちょっとっ、勝手に入らないでちょうだい」
その慌てぶりが、彼らがここにいるという確信を強くした。
居間には義父がいた。
義父は驚いたように菫を見上げ、逃げるように目を逸らした。
挨拶もせずに部屋を突っ切る。
「何なのよ、人の家に勝手に入って! 出て行って!」
「人の家、ですか」
必死の形相で止めようとする義母を突き飛ばした。
義母は呆然と菫を見つめる。
「私はこの家も、自分の家のように思っていましたけど」
家族との縁が薄かった菫を、義父母は自分の娘のように受け入れてくれた。
『いつでも来ていいからね』
良平がいなくなった後もそう言ってくれた。だから縁を切らないまま、家族でいようと思っていた。
けれど彼らにとって、私はとっくに家族ではなくなっていたのだ。
この人たちにとっても、良平にとっても。
それならもう、誰にも遠慮する必要はなかった。
居間の奥にある扉を開けた。
長年使われていなかったはずのその和室に、三人が座っていた。
三人が菫を見上げている。
菫は男の顔を見た。
糸のように細い目。重たそうなまぶた。分厚い唇。
一見、知らない男のようにも見えた。
でも間違いようもなく、そこにいるのは自分の夫——いや、かつての夫だった。
かつての夫が口を開けた。声を震わせながら名前を呼ぶ。
「菫」
よろけるように立ち上がり、菫に縋りつく。
「お願いだ、見なかったことにしてくれ。息子がいるんだ」
なんて情けないのだろう。
これが十五年も待ち続けた夫の姿だなんて。
この男は、この期に及んでもまだ逃げるつもりなのだ。
やめて、と菫は顔を顰めて言った。
「稔くんはあなたとは関係ない。あなたたちのしたこととは、何も」
菫ははっきりとその名前を口にした。
稔は目を見開いて菫を見つめている。
菫は稔を見て、一度うなずいた。
そうよ——私が、あなたが電話で話していた相手。
良平に視線を戻す。
「自分のしたことは自分で責任をとって。子供を巻き込まないで」
良平は裏切られたような目で菫を見た。
「……君ならわかってくれると思った」
口元に笑みを浮かべながらそう言った。
「だから会いに行ったんだ。君なら——菫なら気づいてくれると思ってた。でも、気づかなかった」
体が離れ、ゆらゆらと揺れる。
「その程度なんだ。父さんと母さんはわかってくれた。守るって言ってくれたよ」
この男が最後に頼ったのは親だった。
自分の罪からも、家族からも、どこまでも逃げ続けた結果が目の前にいる男の姿だ。
良平がいなくなったあの日、自分たちは夫婦ではなくなったのだ。
良平がズボンのポケットから何かを取り出した。
両手で肢を握りしめ、銀色に光る先端を菫に向けた。
なあ——
良平はにへらと笑いながら言った。
「わかってくれないなら、消えてくれよ」
「お父さんっ!」
菫が目をつむった瞬間、稔が叫んだ。
どさ、と畳の上に稔が倒れた。
