
(一)
『ずっと会いたかった人に会えました。ありがとうございます。
おかげで、ようやく前に進めるような気がします。
ハーブティー、とてもおいしかったです。』
グルメサイトのレビューに書き込まれていたその言葉を、吉川舞はなんとなく覚えていた。
三年前、夏の休暇でイギリスから一時帰国したとき、母とランチに行くことになり、近場でどこかいい店はないかとネットで検索していたとき、そのレビューを見つけたのだ。
会いたかった人に会えた? その喫茶店に憧れの店員でもいたのだろうか。それとも、お客さんの誰か?
なんだか、レビューというより、誰かに向けたラブレターみたいだと思った。
少し気になったものの、そこは喫茶店らしく、家からも少し遠かったので候補から外し、前に何度か行ったことのある洋食屋になったのだった。
それきり、ずっと忘れていた。
久しぶりに、ふと思い出したのだ。
舞には、どうしても会いたい、いや会わなければならない人がいたから。
舞の人生はこれまでずっと順調だった。父親は弁護士、母親は父親の法律事務所の事務員だった。
父の友人に招待されて、初めてバレエの公演を観に行った。物語の内容は、よくわからなかった。それでも、言葉のない、音楽と踊りだけの不思議で美しい世界に、舞はあっという間に魅入ってしまった。
五歳でバレエを始め、小学二年生で初めてコンクールで入賞したのをきっかけに、次々と有名な賞をとっていった。遊ぶ時間はほとんどなかった。毎日学校からレッスンに直行し、食事は厳しく制限され、お菓子は年に二度、誕生日とクリスマスにしか食べられなかった。
バレエが好きだったから、苦しいとは思わなかった。それにいつも瑠夏が一緒だったから、学校の友達と遊べなくても、少しも寂しくなかった。
三石瑠夏とは学校は違うけれど、幼い頃から同じバレエスクールに通っていて、歳も一緒だった。十六歳でイギリスのロイヤルバレエスクールに留学したときも、十九歳で国立バレエ団に入団したときもだ。まだつま先立ちもできなかった幼い頃から二十五歳のいままで、本当の家族よりも長く、濃密な時間を過ごしてきたのだった。
『どっちが先にプリンシパルになるか、競争ね』
舞と瑠夏はそう約束した。
プリンシパルとはバレエ団の最高位ダンサーのことだ。男女問わず、高い技術力と演技力を持ち、そのバレエ団の顔となる。
それまでずっと一緒だったけれど、二人一緒にプリンシパルになることはできない。同時になれるのは、男女一人ずつと決まっていた。それなら違うバレエ団に入ることもできたけれど、同じ場所で、お互いの存在をそばに感じながら競い合うことに意味があるのだった。
『どっちがなっても恨みっこなしだからね』
と瑠夏は言った。それからちょっと舌を出して、
『あ、でももしあたしが負けたら、ちょっと恨むかも』
『そんなこと一ミリも心配してないくせに』
『バレた?』
選ばれるのはどちらか一人。そのときの気持ちなんて、そのときにならなければわからない。
幼い頃から天才と謳われた瑠夏と違って、舞はひたすら努力を積み重ねるタイプだった。
――私は瑠夏とは違う。だけど、努力で同じステージに立てたんだ。絶対、負けるもんか。
二人で競うように、コリフェ、ソリストと、順調に階級が上がっていった。どちらかの階級が上がれば必ずお祝いした。でもそれは、どちらかが選ばれないという、残酷な瞬間が少しずつ近づいていることを意味していた。
一年前、新たなダンサーがプリンシパルに選ばれた。同バレエ団初の日本人プリンシパルとして、新聞や雑誌で大々的に取り上げられ、イギリス中で話題になった。
選ばれたのは、舞のほうだった。
その夜、瑠夏がケーキを買ってきてくれて、二人でお祝いをした。
『前、負けたら恨むかもって言ったけど、あれ嘘だから。すぐにあたしが追い抜かすから』
『あ、言ったね』
夜遅くまでワインをたっぷり飲んで、たくさん笑って、いつの間にかベッドで眠っていた。
そして翌朝、瑠夏はいなくなった。
瑠夏に会ったのは、それが最後だった。
「ちょっと出かけてくるね」
と母に声をかけると、あっそうそう、と母が何か思い出したようにぱっと立ち上がった。
「まーちゃんに似合うと思って、新しい服を買っておいたの。どうかしら?」
声を弾ませながら、紙袋からピンク色のワンピースを取り出し、ひらりと舞の体に当てる。
「ほら、やっぱりすっごく似合う」
嬉しそうな母の様子に、舞は苦笑を浮かべた。
母は昔から舞の世話を焼きたがった。
食べるものから着るものまで、娘のことは、自分が把握しておきたい人なのだ。二十五歳になっても母に世話を焼かれているのも、『まーちゃん』という小さな子供みたいな呼び名も、ちょっと恥ずかしいけれど、それが母なりの愛情なのだと知っていたから、文句を言ったこともなかった。
……そのひらひらのワンピースは、ちょっと趣味には合わないけれど。
鬱蒼とした森のような場所をしばらく歩いていくと、その白い建物が見えた。窓と入口があるほかは、飾り気のない豆腐のような長方体が、木々に囲まれてどでんと横たわっている。
入口の扉を開けると、中は薄暗く、目の前には階段があり『関係者以外立ち入り禁止』の看板が立っていた。昔、何かの施設だったみたいだ。
店は右側にあった。
『喫茶 ネリネ』
と、木の扉に札がかかっていた。扉の小窓から、ぽうっと淡い光が漏れている。
舞は少し緊張しながら、扉を押し開けた。
テーブル席が四つと、カウンター席が六つ。淡いオレンジ色の明かりが店内を満たし、柔らかい雰囲気を醸し出している。ふわりと軽やかな花の香りが鼻を抜けていく。カウンターで二人組の女性が、ハーブティーを飲みながら楽しそうに話していた。
カウンターの奥には、ずらりとハーブの瓶が並んでいる。そこに立っている女性と、目が合った。
「いらっしゃいませ」
とその女性はにっこりと微笑んで言った。
歳は二十歳くらいだろうか。十代にも見える。顔も背丈も、すべて舞よりサイズがひと回り小さく、こぢんまりとしていて、女性というより女の子という感じだ。大きな猫っぽい目に、ふっくらと赤い唇。袖が膨らんだ桜色のワンピースに、少し大きめの生成り色のエプロンを羽織っている。前髪を眉の上でぴったりと揃えて、長い黒髪を後ろでゆるく一つに結んでいた。
学生のアルバイトだろうか。かわいい子だな、と思った。
「お好きな席にどうぞ」
彼女はにっこり微笑んで言った。
少し迷って、窓際の席に座った。飴色のテーブルが、窓から入る日差しを浴びてつやつやと輝いている。
メニュー表を開くと、朝、昼、夜に分けてメニューが書いてあった。
デザートは『本日のデザート』一種類なのに対して、ドリンクの種類がやけに多い。
『当店オリジナルのブレンドハーブティー』
ハーブティーだけで十種類あり、それぞれ番号がふられている。
一つ目は『イライラしちゃう人へ』。二つ目は『スッキリしたい人へ』。三つ目は『数字のバランスが気になる人へ』とある。数字のバランスって何のことだろう。
「お決まりですか?」
カウンターに目を向けると、店員の女性が尋ねた。
「すみません」
小さく手を挙げて言うと、はい、と彼女はカウンターの扉を開けて出てきた。
「この、数字のバランスって何ですか?」
「そちらは、血圧を下げる作用や、糖の吸収を抑える作用、肥満にお悩みの方に効果があります」
「じゃあ、それでお願いします」
舞は即答した。
彼女は何か言いたそうに、大きな黒い目で、舞の顔をじっと見た。途端に恥ずかしくなって、やっぱりやめます、と訂正しようとしたとき、
「かしこまりました」
彼女はにっこり笑ってそう言うと、カウンターに戻っていった。
……今の間は、何だったのだろう。
舞のことなど知るはずもない彼女に、一瞬、心の内を見透かされたような気がした。
ダンサーはつねに体型を気にする必要がある。
とくに女性ダンサーは、男性ダンサーと踊る際に持ち上げてもらうことがあるため、身軽であることが必須だ。舞台上で見栄えがするよう細くしなやかで、かつ華麗に舞えるだけの筋力もなくてはならない。細いだけではだめなのだ。
食事にはいつも気を遣っていた。糖質を極力抑え、筋肉をつけるためにたんぱく質を、骨を守るためにカルシウムを、肌を白く見せるためにビタミンを摂り、足りない栄養素はサプリで補っていた。スイーツなんてもってのほかだ。
二人組の女性客が立ち上がり、会計をして出て行った。
入れ替わるようにして、扉が開く。
入ってきたのは、つえをついた真っ白な髪のおばあさんだった。
「あなたが店員さん?」
おばあさんはふらふらとカウンターに近づいて尋ねた。
はい、と店員の女性はにっこりとうなずいて、言った。
「店主の小野寺かおると申します」
舞は驚いて、彼女をまじまじと見つめた。
――ええっ、店主? 店長さんだったの?
二十歳前後、いや、十代の少女にも見えるその小柄な女性が、このお店の店主だったとは。
おばあさんは、そう、と頷いて、
「ここで待っていたら、会いたい人に会えるというのは、本当かしら」
と、不思議なことを言った。
舞はぽかんとして、おばあさんの顔を見た。
会いたい人に会える? 約束もしていないのに?
誰かと待ち合わせをしているという感じでもなさそうだ。
それに、そのフレーズどこかで聞いたような……
そうだ、レビューだ。あのレビューを思い出して、ここに来たのだった。
「そうですね。会える人もいます。でも、会えない人もいます」
としかし、店員の女性――かおるさんは、はっきりと否定するでもなく、意味深な返答をした。
「そう。じゃあ今日一日、ここで待たせてもらうわ」
おばあさんは入ってすぐ、いちばん手前のテーブルに杖をかけて、ゆっくりと腰を下ろした。