
(六)
若菜はまばたきも忘れて、目の前の南を見つめた。
短い髪。日に焼けた肌。大きな瞳。
それはよく知っている、毎日顔を合わせていた、南だった。
「なんで、南ちゃんが」
かすれた声で問う。
南が少し笑って言った。
「なんでかな。わたしにもよくわからないんだ。でも、なんか呼ばれた気がしたの」
「呼ばれた……?」
「うん。誰かに。もしかして、若菜が呼んでくれたの?」
「私が?」
わからない、と若菜は首を振る。
でも、思った。
会いたい、と強く。呼ぶ、というよりは、祈るように。
「わからない、けど」
若菜が声を詰まらせながら、必死に絞り出すように続ける。
「言いたいことが、あったの。どうしても、南ちゃんに、ごめんなさい、って」
若菜が顔を伏せて言った。下に向けた目から、涙がこぼれ落ちる。
自分がいなければ、南がいじめられることはなかった。
死にたいと思わなければ、行動に移さなければ、南が代わりに死ぬことはなかった。
そして。
「私ね、言わなかったの」
言えなかったのではなく、言わなかった。
南が、道路に飛び出した自分の身代わりになったことを。
「思い知らせてやりたかった。あいつらに、私と南ちゃんをいじめたあいつらに。あんたたちのせいだって。あんたたちが傷つけたんだって」
あの日は土砂降りで、視界も悪かった。駆けつけた人たちが見ていたのは若菜ではなく、倒れている南だけだった。
だから、若菜はその場にいなかったかのように振る舞った。
救急車と人の喧騒に紛れて、その場から逃げ出した。
そして、自分がその場にいたことを、誰にも言わなかった。
復讐のつもりだった。
しかし教室に行っていないから、若菜は教室がどんな様子になっているのかわからない。だから、後をつけることにした。
下校のとき、女子生徒のグループの後をひっそりとついていった。自分たちをいじめていた女子たちの後を。
彼女たちは楽しそうに笑いながら歩いていた。友達の肩を叩いたり、腕を組んだりしながら。暗い顔をしている者なんて、一人もいなかった。
南がいなくなったことなんて忘れたように。それどころか、はじめからいなかったかのように。
復讐なんて意味がなかったと知った。
かすり傷ほどの痛みすら負っていなかった。自分たちが悪いなんて、これっぽっちも思っていないのがわかった。
「悔しい。あいつらが悪いのに、あいつらのせいで……」
「じゃ、復讐なんてもうやめよ」
南はあっけらかんと言った。
「そんなの、若菜が苦しくなるだけだよ。わたしは、南がわたしのために泣いてくれただけで充分」
若菜が驚いた顔で南を見た。
「恨んでないの……?」
「なんでわたしが若菜を恨むの?」
「だって……」
自分の身代わりになって南は死んでしまった。
その上、若菜の死を復讐のために利用したのだ。
それだけじゃない。最初からそうだった。
南が保健室に通うようになったのも、いじめられるようになったきっかけも、そうだ。
南いつも、若菜のために行動していたのだった。
「なんでって、そりゃあ、若菜が好きだからだよ」
南は笑って、言った。
「一年の新学期にね。初めて教室で挨拶したとき、あ、この子と仲良くなれそう、って思ったの。ぎこちなくて、不器用そうで、でも絶対気が合うって、直感で思った。困ってたら助けたいし、弱ってるときはそばにいたいと思った。好きだから、大好きだから」
まっすぐな言葉に、若菜の目から涙があふれた。
私も、このいつも明るくて前向きな友達が、大好きだった。南の存在に救われていた。
「それだけじゃダメかな?」
若菜は涙を流しながら、首を振った。
「お待たせいたしました。マテ、ローズマリー、ペパーミント、ラズベリーのハーブティーです」
かおるが言った。ガラスのポットとティーカップを二つテーブルに置いて、オレンジ色のハーブティーを注いだ。ふわりと甘い香りが広がった。
「えっ、わたし、頼んでませんけど?」
南がかおるを見あげた。
「それはご心配なく。お代は大人の女性からちゃんといただきますので」
「大人?」
目を瞬かせる二人の少女に、かおるはにっこりとほほ笑んだ。
「じつはね。あなたにどうしても会いたいって、毎日ここに通ってる人がいるの。もうそろそろ来る頃じゃないかな」
ほどなくして、扉が開いた。
ハーブティーを飲んでいる南の姿を見るなり、早苗先生は駆け寄って抱きしめた。
「それでは、ランチのご用意をさせていただきますね」
かおるは言った。
「えっ、ランチ? もう夕方ですけど……」
「お客様がランチだと思えば、それはランチなのです」
「ええ……」
戸惑う若菜に、早苗先生はふふっと笑って、
「ええ、お願いします。三人分ね」
と指を三本立てて言った。
『もし冴島さんがここに来たら、ハンバーグを作ってもらえない?』
前に早苗先生に頼まれて以来、かおるは毎日ランチメニューにハンバーグを入れていた。
そして、その日はきっと遠くないだろうとなんとなく感じていた。
『ハンバーグですか?』
『冴島さんの大好物なの。給食のハンバーグをおいしそうに食べる彼女の顔が忘れられなくてね』
ジュウジュウと肉が焼ける音がする。
焼き上がったハンバーグを皿に乗せて、ハーブをひとつまみ乗せる。付け合わせのキャロットラペ、ひじき、ひと口サイズのオムレツを盛り付けたら完全だ。
「お待たせいたしました。本日のスペシャルランチ、ハンバーグプレートです」
色鮮やかな料理に、三人の顔もぱっと明るくなった。
全員の記憶に残っていなくてもいい、と楽しそうに笑いあう三人を見つめながら、かおるは思った。
覚えている人は、きっといる。
覚えていたい人も、忘れられない人も。
覚えている誰かがいる限り、その人の存在が消えることはないのだから。