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『喫茶ネリネで会いましょう』第5話

2025年6月27日 投稿

(五)

『もし、誰にも言えずに悩んでいることがあったら、ここに来て』

 中学校に行った日。
 とっさに、かおるはそう言っていた。
 うつむきがちに話す少女が、何かを抱えているように思えたから。
 そして、何かに怯えているようにも。
 こういうときの勘は、昔から当たるほうだ。
 この妙な勘も、父譲りなのだろうか。

 あれから十日が経った。
 窓はカーテンのように雨が外の景色を覆い隠している。六月中旬になり、本格的に梅雨入りしたようだった。
 今日はずっとこんな天気だ。さっきまで何組かランチのお客さんがいたけれど、いま店内に聞こえるのは外から聞こえる静かな雨音だけ。
 そのとき、誰かが建物に入ってくる気配がした。キイ、とゆっくり扉がひらく。
「いらっしゃい」
 かおるはにっこりと笑って言う。
「……こんにちは」もし、誰にも言えずに悩んでいることがあったら、ここに来て』

 制服姿の少女――森田若菜は、目を合わせずに小さくつぶやく。
「お好きなお席にどうぞ」
 そう言うと、若菜はぺこりと頭を下げて、窓際のテーブル席に座った。
 かおるは水とおしぼり、メニュー表を若菜の前に置く。
「当店ではお客様のその日の体調や気分に合わせてお選びいただけるよう、十種類のブレンドハーブティーをご用意しております。どうぞごゆっくりお選びください」
「は、はい」
 若菜はうなずいて、しばらくじっとメニューに見入っていた。
「あの……」
 顔を上げて、小さな声で言う。
「9番の、ハーブティーをお願いします……」
「かしこまりました」
 カウンターの棚からハーブの入った瓶を取り出し、それぞれ必要な量を混ぜ合わせる。ハーブとお湯をティーポットに注いで、ふたをして五分ほど蒸らすと、優しいハーブの香りが満ちてくる。
 ティーポットとカップを、コトリと若菜の前に置いた。
「お待たせいたしました。マテ、ローズマリー、ペパーミント、ラズベリーリーのブレンドハーブティーでございます」
 若菜が物珍しそうにカップを見ている。中学生の若菜には、あまり馴染みのない飲み物かもしれない。
「ごゆっくりどうぞ」
 と言ってカウンターに戻ろうとしたとき、
「あの……っ」
 若菜が言った。
「このお店のこと、早苗先生が、教えてくれたんです。ハーブティーが、おいしいって、おすすめって」
 言いながら、だんだん声が小さくなっていく。でも、必死に言葉を紡いでいるのがわかる。
 若菜にとって、初めての場所に行くことは勇気がいることだっただろう。それでも来てくれた。一人で、扉を開けたのだ。
 そのことに拍手を送りたい気持ちだったが、話を聞く側は冷静でいなくてはいけない。
「そうでしたか」
 かおるはにっこりとほほ笑んで言った。
「この間、早苗先生も同じものを頼まれていましたよ」
 そう言った瞬間、若菜はぱっと大きく目をひらいた。
 マテ、ローズマリー、ペパーミント、ラズベリーリー。
 9番のブレンドハーブティーの説明に書いてあるのは――――
『忘れないようにしたい』。
 人は気になっていることがあると、自然と関係のある言葉に目が向く。
 忘れないようにしたいというのは、覚えていたいということ。。
「早苗先生は、優しいから……」
 そう言って、目に涙を浮かべた。
「優しいから、言えなかったんです。いつも話を聞いてくれる、早苗先生にも、誰にも……」
「もしよろしければ、私がお話を伺ってもいいでしょうか。ここには、私と、あなたしかいません。そして私は何を聞いても、このことを誰かに話したりはしません」
 若菜はもう目を逸らさなかった。かおるの顔をじっと見つめて、こくりとうなずいた。

「あの日、死のうとしていたのは、私だったんです」
 若菜はとつとつと語りだした。
 雨の放課後。
 横断歩道。
 見通しの悪い道路で、若菜は傘もささずに濡れそぼりながら、ぼうっと立っていた。

 ――死にたい。

 そう思うようになったきっかけが、はっきりとあるわけではなかった。
 ただ、毎日、降り積もる雪のように、その思いは積み重なっていった。
 中学一年の頃、いじめが始まった。若菜のおどおどした態度が気に入らないという理由だった。
『見てると苛つくんだよねーアイツ』
 数人の女子が、若菜のかばんを逆さにしてゴミ箱に突っ込んでいるのを見た。何も言えなかった。言えばもっとひどいことになるのが、想像できたから。
 いじめはだんだんとエスカレートしていった。破れた教科書や、ゴミ捨て場に放り込まれた上靴や、びしょ濡れの体操服を見るたび、自分はこの教室にいてはいけないと思うようになった。
 その一つ一つが、若菜に言葉もなく『出て行け』と言っていた。
 ある日、気分が悪くなって、保健室に駆け込んだ。少し休んで教室に戻ろうと思っていたのに、どうしても戻れなかった。戻ろうとすると、足が一歩も動かなくなるのだ。
『ここにいていいんだよ』
 養護教諭の早苗先生が言った。
『明日も、明後日も、いたいだけいればいいよ』
 そのすべてを包み込むような温かい言葉が、上辺だけのものではないのが若菜にはわかった。
 早苗先生は、いつも生徒のことを気にかけていて、心から大切に思っているのが、保健室に通うようになってわかった。
 早苗先生がいなかったら、きっと保健室には行かず、不登校になっていただろう。
 ここにいれば、何もされることはない。ここは安全な場所だ。
 二学期になっても、毎日保健室登校を続けた。そしてある日、
『こんにちはー。ちょっと疲れたから休んでいいですか?』
 そう言って入ってきたのは、同じクラスの冴島南だった。
『どうぞ。でも一応、問診はさせてね』
『はーい』
 早苗先生と南のやりとりを聞きながら、若菜はベッドを囲う薄いカーテンの奥でじっと息を殺していた。
 南は、若菜をいじめていた女子たちのグループではない。けれど、明るく活発で、友達が多くて、さらに成績まで優秀。非の打ちどころがない。自分とはまるで違うタイプだ。
 きっと、本当に疲れていたのか、たまたま体調が悪かったのだろう。
 南が一時間だけ休んで保健室を出て行ったときは、心底ホッとした。もう少しで窒息するところだった。
 でも、次の日も南は来た。次の日も、その次の日も。
 早苗先生は何も言わなかったけれど、それが三日続いて、さすがにおかしいと思い始めた頃。
 南が突然、カーテン越しに話しかけてきた。
『ね、森田さん。理科のプリントでわかんないとこあるんだけど、聞いてもいい?』
 びっくりした。南は学年でつねに上位に入るくらい頭がいいから。
『あたし、化学だけはほんとだめなの。化学式とか、意味不明な暗号にしか見えないし』
『そ、そうなんだ……』
 それから、ベッドの間に机を置いて、向かいあって勉強をするのが日課になった。
 いつの間にか、南は朝から下校まで、一日中保健室にいるのが当たり前になっていた。
 若菜と南、早苗先生の三人で食べる給食はおいしかった。たくさん笑った。何かを食べて、おいしいと思えたのは久しぶりだった。
 ときどき、誰かが扉を開けて入ってきたときは、慌ててカーテンの内側に隠れたけれど、それさえも南と一緒なら楽しかった。
 ずっとこんなふうにしていたい。
 笑っていたい。
 だけど、本当にこれでいいのだろうか。

 そして、二年生になった。
『南ちゃんは、二年生になったら教室に行くの?』
『ううん、行かない。こっちのほうがラクだし、楽しいもん』
 その返事に、若菜はホッとした。
 でも、同時に、胸の奥が軋むように痛んだ。
 南が教室に行かなくなったのは、自分のせいだ。
 南の性格をよく知ったいまなら、わかる。
 きっと、あの女子グループに何か言ったのだろう。そして、標的を失った女子たちは、若菜にしたのと同じことを、南にした。
 ずっと保健室にいたはずなのに、教室で起こったことを見たようにわかった。南はそのことを、ひと言も口にしなかった。まるで自分の意志でここにいるのだと言わんばかりに、明るく振る舞った。
 だからこそ、苦しかった。
 自分さえいなければ、南はいじめられることはなかった。普通に教室に行けたはずだった。

 ――私さえいなければ。

 ――ごめんね。南ちゃんの優しさに、甘えてた。

 ――もういなくなるから。

 自分がいなくなればいいんだ。
 そう気づいてから、唯一安心できた保健室でさえ、息苦しく感じるようになった。

『疲れちゃったんだ』

 南にその言葉を言わせてしまったのは、あの女子たちじゃない。
 ――私だったんだ。

 雨の放課後、傘もささずに学校を出た。
 そのまま暗くなるまで街を歩き続けた。
 誰も自分を見ていなかった。
 もう、学校も、家も、この世界も、どこにも居場所はなかった。
 そのまま遠くまでいけたのに、学校の近くを選んだのは、あの子たちに思い知らせたかったからだ。
 雨は激しさを増し、学校の近くにはほとんど人の気配はなかった。
 横断歩道の前に立つ。信号が点滅し、赤に変わる。それは命のカウントダウンに見えた。
 教室に行くのがあれほど怖かったのに、そこから足を踏み出すのは少しも怖いと思わなかった。
 車が向かってくる。雨の中、目の前でライトが光る。
 そのときだった。

『――若菜っ!』

 突然、声がして、すごい勢いで突き飛ばされた。
 若菜は呆然と目の前の光景を見た。
 さっきまで自分がいた場所に、南が倒れていた。
 あっという間に人だかりができて、誰かが若菜に、大丈夫かと尋ねた。はい、と答えたような気がする。それから先の記憶は曖昧だ。
 次の日、学校で、南が病院で息を引き取ったと知らされた。
 自分はそこにいたのに――本当にいたのだろうか。あの場所に。たしかにいたはずなのに。本当のことが、わからなくなった。
「南ちゃんが死んじゃったのは、私のせいなのに、南ちゃんは、私を助けてくれたのに」
 若菜は泣きながら話した。
「私は、言えなかった、全然関係ない、部外者みたいに、してた。先生たちは、初めていじめがあったことを知ったみたいに、急に騒ぎ出して、私も、南ちゃんの様子とかを聞かれて、」
 知らない、と言った。
 その後も、毎日学校に行って、保健室に通った。早苗先生は、毎日辛そうにしていた。
 若菜は口を閉ざして、日常を続けようとした。南が保健室に来る前と同じように。
 最低だった。自分が世界でいちばん醜い存在に思えた。
「南ちゃんは、きっと、私を恨んでる。逃げてばかりで、何も言えない私を、恨んでる」
「本当にそう思う?」
 かおるが言った。
「そう思うなら、本人に聞いてみればいい」
「え……?」
 どういうことだろう。
 若菜は訝しげにかおるを見た。
 この人、話を聞いていなかったんだろうか。
 かおるは穏やかに若菜の目を見つめて言った。
「南ちゃんに会いたい?」

 ――会いたい……?

 南はもういない。
 私のせいで死んでしまった。
 私を助けるために。
 いなくなるべきなのは自分のほうなのに。
 でも……

「会いたい」

 若菜は言った。

「会いたい」

 もう一度、さっきよりも強く。

「ごめんねって、言いたい……!」
「その気持ちがあれば、大丈夫よ」
 かおるがほほ笑んで言った。
 カチャリと控えめな音がして、扉が開いた。
 若菜は、息が止まるほど驚いた。
 そこには、制服姿の南が立っていた。
「若菜」
 南が驚いた様子で若菜のほうに歩み寄る。
「久しぶり……って、どれくらい経ったのかよくわからないんだけど。とりあえずここ、座ってもいい?」
 南は、わからないところがあるんだけど聞いてもいい? と言うような口調で尋ねた。
 これは夢なのだろうか……。
 若菜はそう思いながら、うなずくので精一杯だった。

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