
(八)
会ったことがある?
舞は不思議に思い、その男性を見た。
彼はここに来たのは初めてだと言ったが、もしかして知り合いだったのだろうか。
男性も同じようにぽかんとしている。
「はあ、もしやどこかでお会いしたことがあったでしょうか」
いいえ、としかし、かおるさんは首を振った。
「でも、その杖を持っていらっしゃった女性を知っています」
かおるさんの言葉に、彼ははっとしたようだった。
「ああ、そうか。妻はここに来たことがあるんでしたね」
「ええ。奥さまは、その杖を大事そうに持っていらっしゃいました」
かおるさんがにっこりと言う。
男性が持っているのは、何の変哲もない、木の杖だった。
杖の持ち主がその杖を大事そうにしているかどうかなんて、考えたことがなかった。杖は、歩くためのただの補助器具にすぎない。
でも、その持ち手の部分にくっきりと彫られたイニシャルを見て、思い出した。
舞がこの店を訪れた最初の日にやってきた、足の悪い女性のことを。
その人はたしか、『すみ子』ーーそう呼ばれていた。
「そうでしたか。この杖は、妻が足を悪くしたとき、私が買ってやったものでしてね」
男性は、照れくさそうに頭をかいて続けた。
「この杖を持っていると、不思議と妻がそばにいるような気がするんです。いないのはわかっているんですが、なんだか、一緒に歩いているような……いけませんね。最近、すぐに感傷的になってしまって」
男性は言いながら、涙を浮かべた。顔に刻まれた細かいしわに涙が滲む。
「それは、奥さまがあなたを大切に想っていたということではないでしょうか」
かおるさんの言葉に、男性は苦笑を浮かべた。
「妻は時々、ふと思い出したように、手紙を眺めていました。いえ、その手紙を盗み見るようなことはしてません。ですが、その手紙の送り主が誰なのかは、なんとなくわかりました。妻は昔、べつの男性と結婚の約束をしていたんです。その方は、戦争で亡くなったと聞いています」
その瞬間、春の日差しにつつまれた、二人の男女が目の前に浮かび上がった気がした。
うんと歳の離れた二人。フルーツの入った冷たいシロップを、懐かしそうに、おいしそうに飲んでいた。とても幸せそうだった。
死を悟った女性が、最後に会いたいと願ったのは、何十年も昔に離れ離れになった婚約者だった。
それは、その後の何十年もの時間を連れ添った彼にとってはーーたとえ彼がその場にいなかったとしても、その事実は、残酷なことではないだろうか。
彼がすみ子さんのことを、心から愛していたのが伝わってくる。
それがわかるからこそ、舞はもどかしい気持ちになった。
でも、彼は知らない、もうひとつの事実があった。
その場に居合わせた舞とかおるさんは、そのことを知っている。
舞はかおるさんにちらりと目配せをした。
かおるさんは何か心得たように、小さくうなずいた。
それを伝えるのは、自分ではないというように。
そして、何かの意志に導かれるように、静かに扉が開いた。
「何をばかなことを言っているのかしらね、あなたは」
そこに立っていたのは、足の悪い年老いた女性ーーすみ子さん。
「ああ……」
「あなた、歳のわりに元気なのに、杖なんてついて。本当に足を悪くしてしまうわよ」
もう彼女は、杖がなくても歩くことができた。痛みから解放されたように、まっすぐに男性のもとへ歩み寄る。
そして、目の前に立った。
ねえあなたーーすみ子さんは、男性を見つめながら言う。
「私は毎年、手紙を読み返していたの。戦争に行ったきり帰ってこなかったあの人に、私たちを守ってくれてありがとう。私はいま幸せですって、言っていたの。もちろん、あなたにも」
「俺は、仕事ばかりでほとんど家にも帰らなかった。家族を大切にしてやれなかった……」
そのことを、彼は悔やんでいるのだ。
すみ子さんが亡くなってからずっと。
だから、ここに来たのだ。
その答えが知りたくて。
すみ子さんはふっとほほ笑んで、首を振った。
「あなたはずっと、家族を守ってくれていた。食べるのに困らずに済んだ。それだけで、十分幸せだった。それに仕事を辞めてからは毎日散歩したりして、一緒にいたじゃないの」
静かな時間が過ぎた。静かだけれど、どこからかかすかな音楽が聴こえてくるような、不思議な時間だった。
かおるさんが、ずずっと鼻をすする。目元は真っ赤になっていた。
前から思っていたけれど、かおるさんは、けっこう涙もろい。
「失礼いたしました……わたしとしたことが、ついうっかり、お飲み物の注文を聞きそびれてしまいました」
ハンカチで目元を拭きながら、かおるさんが二人を席にすすめた。
「ええと、卵かけごはんに合う飲み物はありますでしょうか」
男性は、恐縮するようにそう言った。それはもしかしたら、不器用な照れ隠しだったのかもしれない。
しばらくして、ふわりと優しい匂いが店内に立ち上った。
この匂い……懐かしい……ああ、そうだ、これは、お味噌汁の匂いだ。
「お待たせいたしました。モーニングメニューの卵かけごはんでございます」
つやつやとした白いごはんに、とうふの入ったお味噌汁。ほうれん草のごま和えに、人参のサラダ。丸いうつわに、ころりと白い卵が入っている。
「こちらは、山椒、バジル、タイムのブレンドハーブティーでございます。そのまま飲んでもいいですし、ご飯にかけるのもおすすめです。ハーブのスパイスが卵に新鮮な風味を促してくれますよ」
「卵かけご飯にハーブティーですか……」
「まあ、おもしろい組み合わせ」
すみ子さんは目を丸くして言うと、手を合わせて食べはじめた。
もの珍しそうに見ていた男性も、つづいて箸を持つ。
卵を割る音。箸と食器が鳴る音。会話はほとんどない。
夫婦とはいえ、久しぶりの再会に気詰まりなのかな、と最初は思った。
でも、二人の様子を見ているうちに、そうじゃないと気づいた。
きっと、これがこの夫婦の“ふつう”なのだ。
何十年も毎日、飽きるほど繰り返してきた朝食を、いま、向かい合って、静かに噛みしめているのだ。
舞は、どうしても考えてしまった。
あのときのすみ子さんと、目の前にいる彼女は、姿は同じなのに、まるで別人のようだ、と。
『すみ子さん、僕と、結婚してください』
前に、ここで、彼女にプロポーズをした若い男の人がいた。
二人、向かい合って、フルーツの入ったシロップを飲んでいた。
若い彼と、目の前にいる老女は、うんと歳が離れているのに、まるで恋人同士のように見えた。
何十年分もの時を遡って、少年と少女に戻ったみたいだった。
『ありがとう。嬉しいわ』
すみ子さんはあのとき、涙を浮かべてそう言った。
でも、その後に、若い彼の目をしっかりと見つめて、続けたのだった。
『でも、ごめんなさい。それはできないの。私には、最後まで一緒にいたい人がいるから』
恋人同士のような雰囲気は、長く一緒に過ごした夫婦にはもうないかもしれない。
でも、その分、お互いにかけがえのない存在になっていたことを、わかっていたんじゃないか。
その証拠に、二人はとても幸せそうだった。
「ああ、おいしかった」
食べ終わって、男性は満足そうに言った。
「本当においしい。卵かけご飯にハーブが合うなんて、びっくり。生きてるうちに知りたかったわあ」
「たまに、仏壇に供えてやろうか。俺はまだまだくたばりそうにないし」
「まあ。じゃあ、お願いしようかしら」
すみ子さんが口に手を当ててくすくすと笑う。
そして、手を振りながら出て行った。
前は、見送るほう。
そして今度は、見送られるほうだった。
その後、男性も深々と頭を下げて、店を後にした。
「また、いつでもお待ちしております」
かおるさんは、やっぱり涙を浮かべながら、そう言った。
「かおるさんって、もしかしてイタコみたいな力があるんですか?」
ほかに誰もいなくなった店内で、舞は気になっていたことを尋ねた。
扉が開く瞬間を、かおるさんは知っているようだった。
そういうとき、かおるさんは手をスカートの前で組んで、「いらっしゃい」というように、ふわりと微笑むのだった。
そうなることを、ずっと前から知っていたかのように。
もしかして、かおるさんが呼び寄せているんじゃないか。ふと、そう思ったのだ。
しかし、かおるさんは「いいえ」と、首を横に振る。
「わたしには、そんな特別な力はないわ。わたしはただの喫茶店の店主ですから」
ただの喫茶店の店主は、卵かけご飯に合うハーブティーと言われて即座に作ってしまったりはしないと思う。
かおるさんは、こちらに向かって歩いてきたかと思うと、窓のカーテンを開けた。分厚い曇り柄越しにでも、淡いオレンジ色の西日がかすかに溶け込むように、店内を照らした。
「ここはね、昔、精神科の病院だったの。二十年も前、まだ線路も通っていなかった頃の話」
振り返ったかおるさんの表情が、カーテンの影になって見えなかった。
まるで、そこにいるのに、いないような。
「ここにやって来る人たちは、みんな誰にも言えない孤独を抱えていた。家族からも周囲の人たちからも見放されて、学校や社会に出てうまくいかなくなって、最後の頼みのようにやってくる人たちが、たくさんいた。口では一人がいいと言っても、心の中には誰かに会いたい、会いに来てほしい、そう思っていた。その人たちの想いが、あっちの世界とこっちの世界を結びつけてくれるんだと思うの」
きっとね、とかおるさんは付け足した。
横に長い白い建物。分厚い窓ガラス。中に入るといくつも部屋があり、そのうちの一部が喫茶店になっている。
初めてここに足を踏み入れたとき、変わったつくりだと思った。
病院だったんだ。
かつて病院だったこの場所が、魂を引き合わせていたのだ。
かおるさんはどうして、ここでお店をやっているのだろう。
何か理由があるのだろうか。
尋ねる前に、かおるさんはすっと窓から離れた。
そしてにっこり笑って、
「お味噌汁余っちゃったけど、一緒に朝ごはんでもどうかしら」
と言った。
舞が迷わずうなずいたのは言うまでもない。