(二十二)
「稔くんっ!」
流れた血が畳の目に滲み、赤く染めていく。
稔は手で腹部を押さえながら、苦しそうな声を漏らした。
お父さん、と稔がぼうっと父親を見つめる。
「これ以上、悪いことしないで。お願い……」
しかしその願いは、目の前の父親には届かなかった。
良平の手は血を浴びて真っ赤に染まっていた。服にも飛び散っている。
「お、俺じゃない……」
俺じゃない、俺じゃない……稔の腹部から抜いたナイフを震える両手で握りしめながら、ぶつぶつと繰り返している。
座って様子を見守っていた小百合が口を押さえてふらりと立ち上がったかと思うと、無言で部屋を出て行った。
信じられない光景だった。
目の前で息子が血を流して倒れているのに、心配する言葉すらかけないなんて。
何なのだろう、この家族は。
人の心を捨てた、おぞましい怪物を目の当たりにした心地がした。
——どこに行くの。
肩を掴んで引き留めたかったが、それよりも稔の容体のほうが優先だ。
救急車を呼ぼうと電話をかけようとしたとき、突然携帯を奪われた。
「何してるのよっ」
義母だった。
「救急車なんて呼ぶのはやめてちょうだい。恥ずかしい」
またしても耳を疑う言葉だった。
恥ずかしい? そんなこと言ってる場合?
「あたしが止血する。応急処置ならあなたよりずっと慣れてるわ」
震災のとき、被災地で怪我人の処置をした経験のことを言っているのだろう。
十五年前——良平が何日も帰ってこず、連絡もつかない。すぐにでも仙台まで探しに行きたいのに、動けなかった。
そんなとき、義母が声をかけてくれた。
『あたしが行くわ。だから菫さんは、ここをお願いね』
そう言って仕事を任せてくれた。
優しく、頼もしい言葉だった。
『お願いします』
自分の思いを、託すつもりでそう言った。
あのとき、もしかしたら、義母は良平に会っていたのかもしれない。
そしてずっと黙っていたのではないだろうか。
そう考えると、いろいろなことが腑に落ちた。
おそらく、パソコンに入っていた良平のカルテのデータを消したのは義母だろう。良平の正体に繋がる証拠をなくすために。
義母は稔のそばにしゃがみ、傷口にタオルを当てた。
白いタオル地が一瞬にして赤に染まり、別のタオルを当てる。その周りを包帯で巻いて固定する。
どうするつもりだろう。まさか縫うの? ここで? 麻酔もないのに?
まともじゃない——ここにいる大人の誰一人、まともじゃない。
稔の額から汗が流れ、体がかすかに震え出した。このままでは体温が下がってしまう。
応急処置としては間違っていなかった。けれど、見た目にはわからない内臓や大きな血管を傷つけている可能性がある。幼い子供の場合、さらに緊急性が高まる。
一刻の猶予も許されない状況なのは、義母にもわかっているはずだった。
もし見殺しにするつもりなら応急処置すらしないだろう。
それなのに連絡するなとはどういうことなのか。
——そうか。
病院に運ばれれば警察に連絡が行く。そうなる前に、自分の融通の効く医者のところへ連れて行くつもりなのだ。
その考えに至った瞬間、怒りで頭がかっと熱くなった。
そんな事、している場合か。
体裁より、地位より、何よりも守らなければならない命が目の前にあるのに。
もしその命が失われてしまっても、「自分たちは精一杯手を尽くしました」と言い逃れするつもりだろう。
人の命を、何だと思っているのか。
どこまでも、自分のことしか考えていない、身勝手な人たち。
もう二度とこの家の人間を家族とは思わない。
菫は瞳孔が開ききってもはやぶつぶつと意味の成さないことを呟いている良平を見た。そして、血まみれの手からナイフを奪い取った。
どうせまともじゃないのだ。誰も。
だったら、脅しでも何でもしてやる。
義母の後ろに立ち、背中に先端を突きつけた。
その瞬間、義母の動きが止まった。振り向かずに言う。
「あなたは、夫がどうなってもいいっていうの……?」
「ええ、もう夫じゃないので」
菫は答えた。
そう。とっくに夫ではなくなっていた。
その事実をずっと認められなかっただけで——。
「……親はね、子供がどんなことをしても必死に守ろうとするものなのよ」
義母の声が震えている。
諦めか、守らなかったことへの悔しさか。
菫は義母に奪われた携帯を手に取り、番号をおした。
「子供がナイフで刺されて倒れています。八歳の男の子で、名前は——」
*
遠野小百合は平川家を後にし、一人で駅へ向かっていた。
ここからどこに行こう。
なるべく遠い場所がいい。
『逃げよう』
一週間前にあの男がそう言ったとき、もう自分たちは終わりだと思った。
この偽物の家族も、もう終わり。
自分が一緒に暮らしている男が本物の夫でないことにはずいぶん前から気づいていた。
震災の直後に現れたあの男を夫だと錯覚してしまったのは、お腹の中にいた子供を失い、夫までいなくなったという現実を受け止められなかったからだ。
だからあの男に夫を重ねて、縋ってしまった。あまりにも弱かった。
あの男が日が経つにつれて、見た目が変わっていった。
でも、どれだけ見た目を変えたところで、あの人には到底なれなかったのだ。
夫は写真を愛していた。夫は無口で見た目も冴えなかったけれど、撮る写真には愛があった。夫の写真に映る自分を見て愛されていると実感した。
お腹に命が宿ったとき、この子を何があっても守り抜こうと決めた。
でも夫もお腹の子もいなくなってしまった。
夫になろうとしたあの男は、写真を撮らなかった。
『写真はもう撮らないの?』
『もう辞めたんだ』
あの男はそう言った。
それら夫が生きている限り、絶対に言わなかったであろう言葉だった。
偽物の証拠を残したくないのだろう。
あの男が少しずつ顔を変えていくのにももちろん気づいていた。
手術の後はしばらく出張と言って家を空けることにも。
それにしても、どこにそんなお金があるのだろう。
普通の会社員がそう次々と整形できるとは思えない。
不思議に思っていたとき、あの男が不在の時を狙ってまた別の男が近づいてきた。
和田はあの男のかつての後輩だと言った。
夫は昔の顧客相手リストを使って詐欺を働いている。バラされたくなければ言うことを聞け。
そう言って言い寄ってきたのだ。
うんざりだった。見た目ばかり夫のふりをしているけれど中身は空っぽのあの男も。あの男を利用しようと近づいてくる和田にも。
だからあの男が和田と待ち合わせているのを知り、先回りして殺した。
——ああ、わたしも同じになってしまった。
この男と、同じことをしている。
ただ消えてほしかった。
それだけの理由で。
証拠を抹消しようと、自分の行いを消すことはできない。
その瞬間から、それまでの自分にはもう二度と戻れなくなったのだと悟った。
あの男と偽物の家族になって十五年が経っていた。
どれだけ嫌悪を覚えても離れなかったのは、稔がいたからだ。
稔を愛していたから。
ここにいれば、自分の罪もいずれ明らかになるだろう。
だからわたしは、いなくなります。
さようなら。わたしの偽物の家族。
遠くへ。誰にも見つからないくらい、できるだけ遠くへ行こう。
知らない土地で、また一からやり直すのだ。
そのときだった。
後ろから足音もなく近づいてきた誰かに、ぽんと肩を叩かれた。
