(二十三)
待ち合わせしているカフェの扉を開け、テーブル席を縫ってその姿を探す。見覚えのある後ろ姿を見つけて、歩み寄った。
「こんにちは。愛美さん」
声をかけると、和田直人の妻、愛美が振り向いた。
以前よりさらに痩せた気がして、少し心配になった。
席に座ってアイスコーヒーを注文する。
「菫先生、本当にありがとうございました」
愛美は深々と頭を下げる。
「いえ、私は何もできませんでした」
菫は首を振って言った。
菫はただ、夫の影を追っていただけだった。
医院にやってきた「遠野慎一郎」という男に違和感を覚え、その直感を頼りに真相に辿り着くことができた。
自分のことで手一杯だった。突然夫が行方不明になり、不安な気持ちを抱えていたであろう愛美とその子供のことまで気を配る余裕もなかった。
しかし夫の居場所を突き止めたことで、結果的に和田の事件についても明らかになったのだった。
あれから一カ月が経ち、めまぐるしく状況が変わっていった。
良平は十五年前、遠野を殺害した容疑で逮捕された。
そして義父母も、指名手配中の息子を匿っていた容疑で逮捕された。
当然、平川歯科医院は営業どころではなく、あれ以来一度も開けることができていない状態に追い込まれた。連日職場にも家にも刑事や記者が押し寄せ、通院中の患者やスタッフの対応など、やるべきことが山積みの状態だ。
さらに、和田を殺したのは、良平が一緒に暮らしていた女性、遠野小百合だった。
和田は良平の弱みを握っているのをいいことに、良平に金を請求し、その一方で小百合に言い寄っていたのだ。
小百合は一度は逃亡を図ったものの、その後警察に捕まり、罪を認めているという。
『子供が生まれてからは仕事と育児でてんてこ舞いで。日常生活がつい疎かになってました』
最後に会ったときの和田は、少し疲れてはいたものの、どこにでもいる普通の父親のように見えた。
子供が産まれて間もない、忙しいけれど幸せそうな父親であり、夫——。
菫はそんな和田の姿に、無意識のうちに、あり得たかもしれない良平との結婚生活を重ねていたのかもしれない。
微笑ましくも、自分はこうなれなかったという引け目をどこかで感じていた。
目の前の幸せだけを見ていれば平穏な生活を送ることができたのに、欲を出したばかりに足元をとられた。
けれど、家族を大切にしていなかったというわけでもない。
少なくとも愛美は和田を疑っていなかったし、温かい時間があったのも確かだ。
幸せとはいったいなんだろう。
目に見えるものだけではない。一度手に入れたと思っても、いとも簡単に手の隙間を抜けて失ってしまうこともある。
四十年以上生きても、いまだにわからない。
でも、わからないからこそ、生きている限り探し求めるのかもしれない。
良平がいなくなってから十五年、時間が止まっているような気がしていた。
けれど止まってなどいない。
十五年ぶりに会って、ようやくわかった。
止まっていたのは、自分だけだったと。
十五年という月日は、かつて愛した人が別人に変わるくらい、確実に流れていたのだと。
——菫先生。
最後に会ったとき、和田が思い出したように口にした言葉が頭をよぎる。
『平川先輩……ご主人にいまでも会いたいと思いますか?』
当たり前でしょう、そう思った。
けれど当たり前のように思っていたことを改めて人に尋ねられて、自分の意思が変わっていないことを確認できたような気がする。
会いたい、という甘い気持ちよりも、知りたい、と強く思った。
——よかった。会うことができて。
現実は見たかったものとはあまりにもかけ離れていたけれど、思い出を美化したまま違和感をやり過ごさなくてよかった。
ようやく、前に進むことができる。
「愛美さん、少し痩せた?」
尋ねると、愛美はかすかに笑おうとして口角をあげて、そうかも、とうなずいた。
「あまり食べ物が喉を通らなくて」
「そう……」
以前はどちらかと言えば丸顔の愛嬌のある顔立ちだったけれど、いまは痩せ細り、若々しさも影をひそめてしまっている。
夫を亡くしたのだから仕方ない。それも知りたくない事実まで知ってしまったのだから——
それでも、時間がかかっても、少しずつ前を向いてほしいと願わずにいられなかった。
「今日は、お子さんは?」
「子供は実家で預かってもらっています。両親によく懐いてるので」
「頼れる人がいるならよかった。私も力になれることがあれば言ってね」
「……ありがとうございます」
それから子供の話になり、愛美は少しだけ笑えるようになった。菫は子供を育てた経験はないが、仕事では毎日のように接していた。そして、稔のことを思い浮かべた。
数ヶ月前は存在すら知らなかった少年のことを、いまでは大切に思うようになっている。
稔の現状については、週に一度と言わず、いつでも知ることができるようになった。
両親も祖父母もいなくなり、いままで祖父母だと思っていた二人は何の血縁関係もなかったことがわかった。引き取り手がいなければ養護施設に入るはずだったが、良介が自分が育てると言い出したのだ。
「平川家とは縁を切った」と言っていたのに、迷わず養父になることを決めたのだった。
もしかしたら仙台に行ったときからこうなることをどこかで予想して、考えていたのかもしれない。
『あの家とは縁を切ったけど、子供に罪はないから』
と言っていた。
稔はあの後、すぐに病院で治療を受け、一時は昏睡状態に陥ったものの、意識が戻ってからは順調に回復し、いまでは病院内を歩き回れるくらいになった。
一度病院にお見舞いに行ったときは、ベッドから体を起こして手紙を書いていた。
『おじいちゃんとおばあちゃんに』
屈託なく、稔はそう言った。
菫は何と言っていいかわからず、言葉に詰まった。
けれど、その表情が語っていたのだ。
たとえ血縁関係がなくても、稔にとってあの二人は「おじいちゃん」と「おばあちゃん」なのだと。
菫は実の両親とは縁が薄かった。かろうじて生きていることだけは知っているけれど、もう長年会っていなかった。だから自分を本当の娘のように受け入れてくれた義父母を本当の両親のように思っていた。
けれど結局、あの家の中には、入ることができなかったのだと思う。
血が繋がっていてもバラバラの家族がいる。
血など繋がっていなくても、本当の家族のような人たちもいる。
稔の表情を見ていたら、家族というのは気づいたらなっているものなのかもしれない、そう思わされた。
*
一年後。
白に淡いピンク色を基調としたこぢんまりとした歯科クリニックが、新しくオープンした。
花のイラストが描かれた看板には
『すみれ歯科クリニック』と丸みを帯びた文字で書かれている。
平川歯科医院を閉めて新しいクリニックを新設することになったとき、自分を慕ってついてきてくれた日向子が「絶対これですって!」と言い張るので、押しに負けて決めたのだった。
最初は看板に自分の名前を掲げるのが気恥ずかしかったのだが、いまではけっこう気に入っている。
すみれの花言葉は「誠実」。
それは菫が患者に対して一番大切にしていることだったから。
それに院内の雰囲気を前より柔らかくしたことで、なんとなく接し方も柔らかくなったような気がする。気のせいかもしれないが。
「菫先生っ!」
日向子が慌てて診療室に駆け込んできた。
「どうしたの、そんなに急いで」
緊急事態かと身構えたが、何やらそわそわしているのでどうやら違うようだと察する。
「稔くんですよ」
日向子が声をひそめて耳打ちする。
「なんだ。慌てることないじゃない」
菫は思わず笑みをこぼした。
稔は現在、良介と二人で暮らしている。
まだ小学四年生、それも愛知から東京に引っ越してきてまだ一年だというのに、電車に乗って一人で検診にやってくるのだ。仕事で忙しい養父の手を煩わせることもなく、しっかりしているなと感心してしまう。
「違うんです。お父さんも一緒なんですよっ!」
「良介さんも?」
土曜日でも大学の研究室にいることが多いと言っていたが、今日は一緒に来ているらしい。
それでようやく、日向子が慌てている理由がわかった。
四十代後半とはいえ、長身に整った容姿、何事にも動じない堂々とした佇まい、そして大学教授という肩書き——いままで独身を貫いてきたのは研究にしか興味を示さなかったからだろう。
クリニックがオープンした日にお祝いの花を持ってきてくれたとき以来、日向子は良介のファンになったらしい。
「稔くんこんにちは。今日はお父さんも一緒なんだね。どうぞこちらへ」
いつも通りの笑顔で診療台に案内した後、くるりと後ろを向き、うっとりと目を細める。
「やっぱりカッコいい〜」
などと言いながらも、手はしっかりと治療の準備をしている。
菫はカルテに視線を落としながら苦笑した。
「別に患者さんとスタッフが仲良くなるのを止めたりしないわよ」
「何言ってるんですか。仲良くなるのは菫先生ですよ」
「私……?」
キョトンとする菫に、日向子がすり寄って小声でささやく。
「すみれのもう一つの花言葉は『小さな幸せ』ですよ、先生」
——なるほど。
意味ありげな言葉に含まれた意味がわかった。
なんでもすぐに恋愛方面へと持っていきたがる日向子らしい、とも。
菫はカルテを閉じて、言った。
「無駄口叩いてないで、早く始めましょうか」
「……はあい」
つまらなさそうに返事をしながらも、目は微笑ましそうだ。
診療台に座る稔に声をかける。
「こんにちは」
「こんにちは、菫先生!」
稔が屈託なく笑った。
「今日は休みだったので一緒に来れました。よろしくお願いします」
そう言う良介は、すっかり面倒見のいい父親といった雰囲気が滲み出ていた。
二人を見ていると、自然と頬がゆるむ。
——そんなに表情に出ているだろうか。
菫は少し心配になった。
少しでも愛想よく見えるよう努力はしているものの、私情がだだ漏れなのはまずい。
稔が来たと聞いて、たしかに嬉しいと思った。
しかしそれは、日向子が想像しているような感情とは違う。
菫にとって、稔はもはや他人とは言えない存在になっている。
たとえ元夫がほかの女性と作っていた子供だとしても、稔を前にして憎しみや恨みの感情を抱くことはなかった。
両親との別れを経験しても、笑って前を向ける稔を強いと思った。
どうかこの笑顔が失われませんようにと願った。
この一年、良介は菫を気にかけ、時々連絡をくれていた。クリニックを開院するときも心から応援してくれ、忙しい中準備まで手伝ってもらった。
感謝しているし、頼れる存在がいることは心強くもあった。
だけどそれ以上の関係——彼らと家族になりたいのかどうか、この先に踏み込んでもいいのか、そういうことはまだ考えられなかった。
良介にしても、稔と二人でいるのが心地よさそうに見える。
いまはたぶん、この距離感が自分たちにとってちょうどいいのだ。
診療台を倒し、稔が仰向けになる。
「口を開けてもらえるかな」
大きく開けられた口の中を覗き込む。
その瞬間、痛みにも似た既視感を覚えた。
二カ月前にも見た稔の歯、それだけではない。
あのとき、覗き込んだ歯。口の中に吸い込まれるような感覚。
似ている、と思った。
歯の形、並び方までもが、父親のそれとそっくりだった。
そのとき、稔が下から見上げる視線とぶつかった。
何か言いたそうにこちらを見つめている。
菫は我に返り、笑みを浮かべた。
「それじゃあ、きれいにしていきますね」
そう言って口内の奥までライトを当てる。
ほんの一瞬の錯覚に、小さく苦笑した。
稔の歯はまだ完全に永久歯に変え変わってはいない。抜けて生えかけの歯も、ところどころ小さな乳歯もある。
親子だからといって、並び方や形が同じであるはずがないのだ。
それでも重ねてしまうのは、まだ完全に過去を乗り越えることができていないからだろう。
ミラーに奥歯を写す。よく磨かれた、美しい子供の歯だ。
これから何本も生え変わり、形も並び方も変わってゆくだろう。そして生きてきた分だけの表情が、そこにあらわれるのだ。
その頃にはもしかしたら、もう一歩先に踏み込む勇気も持つことができるかもしれない。そう思った。
