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『幸せを運ぶスープ』第5話

2025年6月20日 投稿

5話

 普段と比べて不自然なほど綺麗にセットされた応接室で、木村常務こと和臣さんと対峙する。今まで出会ったどの商談相手よりも丁重におもてなししなければと、僕の会社からは役員はもちろん、社長までもが顔を揃えた。

「突然訪れて申し訳無い──。今日も仕事と聞いたもので、急遽きゅうきょ予定を変更してこちらへ来てしまったよ」
 用意されたお茶の湯呑みをひと口すすり、微かに笑みを浮かべる和臣さん。リラックスした姿とは対照的に、それ以外の全員が緊張で固まる。そんな中で、とてつもなく場違いだと感じながら僕も出席した。もちろん和臣さんのご指名で。
「和臣さん……あなた、トイ・ドリームの常務だったんですか」
 威厳あるオーラの前に誰一人として言葉を発することができない中、思わず本音が零れる。それを失言だと感じたのだろう、僕の上司が「おい青野! 下の名前で呼ぶなんて失礼だぞ!」と、刺すような声で僕を叱責した。
 突然のことで肩が少しビクッと揺れたけど、すかさず和臣さんが「あぁ、気にしないでくれ! 彼とは知り合いなんだ」と手で制した。普段のパワハラ気質な態度も、今だけは毅然とした態度でやり過ごせる自信がある。僕と和臣さんの関係性を知らない人間から見たら、このやり取りはむしろ奇妙にすら感じるかもしれない。

「青野君、黙っていて悪かったね。今日は昨日と違ってスーツなんだが、変じゃないかな?」
 和臣さんは、僕に向けられる周囲の視線など気にする様子も無く、冗談めかしてそう尋ねた。
「いえいえ! 昨日と変わらず、とてもカッコよくキマっていますよ」
「そうかい? ははっ! そりゃ良かった!」
 和臣さんはそう言って破顔の笑みを浮かべる。周囲を置き去りにするほどの軽快なトークは、まさに二人だけの世界。当然、僕以外の全員は揃ってポカンと口を開けていた。
 それもそうだ。何の役職も付いていない平社員である僕の言葉に、日本のおもちゃ業界を牽引する大企業の役員が、これほどまでに上機嫌になっているのだから。

 しかし、さすがの和臣さんも応接室の張り詰めた空気を察したのだろう。一つ咳払いをして、話題を切り替えるようにジャケットのボタンを両手でそっと触った。その瞬間、和臣さんは仕事モードと言わんばかりの真剣な表情へ切り替わる。
「失礼──では、本題に入ろうか。私の権限で突然決めたもので、トイ・ドリームの社内も少々慌ただしくなっているが……単刀直入に申し上げよう。御社と、販売契約を結びたいと思ってる」
 その言葉が発せられた瞬間、ここにいる全員が息を呑んだ。まさかこんな日が来ようとは、夢にも思わなかったからだ。
「早速だが、来年一月から御社専用の販売コーナーを設けたい。広さは……そうだな、他の大手メーカーと同じレベルを確保すると約束しよう。悪くない話だとは思うが──いかがかね、社長」
 和臣さんの鋭い眼差しが社長へ向けられる。さっきまでガチガチに緊張していた社長の表情が、その提案を聞いて徐々にほどけていく。
「そ、それはもちろん! トイ・ドリームにウチの商品を置いていただけるなんて、光栄でございます!」
 社長が震える声でそう答えると、テーブルを挟んで和臣さんと共に立ち上がり、ガッチリと握手を交わした。今だかつてない大きな商談がここに成立。応接室の中は、割れんばかりの拍手喝采に包まれた。

「和臣さん──本当に、本当にありがとうございます。何とお礼を申し上げたらいいか……」
 社長との握手を終えた和臣さんのもとへすぐさま駆け寄る。嬉しさと戸惑いの感情が入り混じる僕へ向けて、和臣さんは「それはこっちのセリフだよ、青野君」と言いながら、にこやかな笑顔を浮かべた。
「おもちゃで子供達に笑顔を届けたい──君が昨日言っていたその言葉、実に感動した。私も、おもちゃメーカーの存在意義とはそうあるべきだと常々思っていてね。おもちゃを愛し、子供を愛する、そんな社員がいる会社と私は仕事がしたいんだ」
 和臣さんはそう言って、僕の肩を優しくポンと叩く。
 昨日のパーティで名刺を渡した時、何故僕の仕事を分かっていながら、自分の身分をすぐに明かさなかったのか疑問だった。だけど今考えてみれば、僕の仕事に対する本音を聞きだす為だったのではないかと一人で納得し、思わずハッとする。大企業の役員と言うと、偉そうにふんぞり返っているイメージが勝手にあったけど──どうやら和臣さんには、そんな先入観は必要無かったらしい。

「それに、颯太を助けてくれたお礼もしなきゃならん。これくらいはお安い御用さ」
 颯太。
 そのワードが響いた瞬間、ビクッと肩を揺らしてこちらを振り返る人物がいた。まるで蛇に睨まれた蛙のように青ざめた表情で狼狽ろうばいしているのは、僕の上司だ。
「それともう一つ……昨日、青野君を叱ったという上司というのは、君か?」
「は、はいっ……私でございます」
 突然ご指名を受けた上司は、声を震わせて返事する。そして次の瞬間、和臣さんはそれまでの穏やかな表情から一変し、鬼の形相を浮かべて口を開いた。
「ウチの息子を助けた恩人を、叱りつけるとは何事だ! 君は部下の何を見ているんだ!」
 その声は応接室の隅々まで響き渡り、誰もが凍りついた。
「もっ、申し訳ございませんっ! まさか木村常務のご子息だとは知らず……!」
 思いがけないタイミングで落ちた雷に、歓喜に包まれていた応接室が一瞬にして静まり返る。和臣さんがこんなに怒りをあらわにするのは、さすがの僕も驚きを隠せない。
「まったく──今後は態度を改めるように!」
「は、はいっ! 以後気を付けますっ!」
 ほぼ直角になるほど腰を折り、全力で謝罪をする上司。周りの社員が恐れおののいている中、ただ僕一人だけが、心の中でひっそりと勝ち誇った気分に浸っていた。

「……少々声を荒らげれしまったな、申し訳無い。では、来月からよろしく頼むよ」
 和臣さんはそう言うと、応接室の外で待機させていた運転手に「車を回してくれ」と告げ、先にハイヤーへ向かわせた。
「次の予定があるんで、私はこれで失礼させてもらうよ。青野君、また会おう」
「はい、今後ともよろしくお願いします!」
 再びにこやかな笑顔を浮かべた和臣さんは、大勢の社員に見送られながら颯爽と会社を後にした。

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