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『キャリアと家族の狭間で』第5話

2025年9月26日 投稿

5話

 体の重さを抱えたまま起床した翌朝。前日に熱を出した李都が気がかりで、今日は出社するのを急遽やめて在宅勤務に切り替えた。保育園は念の為、休ませることにした。
『熱出ちゃったの心配ですね……。こっちは我々に任せて、美貴さんは李都君を見てあげてください』
「ありがとう……恩に着るわ」
 朝の部署ミーティングにはリモートで参加し、デザイン室のメンバーから励ましの言葉をもらう。今日予定されていた対面でのファッションショーの打ち合わせは、代役としてひとまず後輩へ託した。資料の準備を担当していたこともあって、ある程度の全体像は頭に入っているだろう。本当は私が出席して色々と取り決めていきたいところだけど……今日ばかりは、仕方無いと自分に言い聞かせる。

 おでこに冷却シートを貼った李都は、幸いなことにスヤスヤと眠っている。とは言え、在宅勤務でできる業務は限られているので、出社する日に比べたら圧倒的に仕事は進まない。メールの確認や返信をしたり、業務の調整をしたり。一人で進められる範囲で資料を作成したり。せいぜいそんなものだ。
「はぁ……なんだか不完全燃焼、って感じね」
 そんな独り言と、乾いたキーボードの音がリビングに響き渡る。
 業種によっては、在宅勤務の方が生産性が上がる仕事もあるだろう。嫌味や小言を吐く上司がいればそれを聞かなくて済むし、何より通勤時間をかけて会社まで行かなくていい。本来であれば、在宅勤務は嬉しいもののはずだ。
 だけど……この業界はそうはいかない。服のシルエット、生地の色味や質感。そしてそれを見た人のリアクションや、現場の熱量。画面越しだけでは伝わらないことがたくさんある。まるで、本来発揮できるはずの力を封じられているような気分だった。

 同時に、同僚への申し訳無さも募る。自分が会社に行けていたら、李都が熱を出していなければ──。そんなタラレバが足枷あしかせとなり、一日中思考を支配していた。おまけに李都もいつ起き上がるか分からない。いくつもの不安要素が気持ちに重くのしかかって、今日は全く仕事に集中できなかった。
 きっちり定時まで働いたにもかかわらず、仕事の進捗はいまいち。それなのに、疲れはいつも通り溜まっている。体力的なものではなく、おそらく精神的な疲れ。まさに負のスパイラルだ。
「ふぅ……今日はダメな日だわ」
 そして日が沈み始めた頃──体調が戻ってきたのか、李都が普段通りに歩き回り始めた。それを機に、今日は仕事に手を付けるのをやめた。やる気も体力も、既に空っぽになっている。
 気が重いと感じながら、寝るまでの残り時間は家事と育児に費やすことにした。

   *

 翌日。薬の効果と睡眠のおかげか、李都は昨日と打って変わって元気になった。そんな姿に安心しながら保育園に送り届け、今日は会社へ出勤。やっぱり私は、みんなと対面で仕事をする方が向いている。
「おとといと昨日はご迷惑をおかけしました……。息子も元気になりましたので、今日からまた頑張ります」
 出勤してすぐ、仕事を任せてしまっていた部署のメンバーへ頭を下げる。その様子を見ているみんなは嫌な顔ひとつせず、私のもとへ駆け寄ってきてフォローしてくれた。
「そんなこと気にしないでください美貴さん──。何かあったら助け合いですよ。働くママさん、かっこいいです!」
 おごっているわけではないけど、こういう時はいつも救ってくれて本当に助かる。助け”合い”というか、ほとんど一方的に助けてもらっているけど。この優しさが無ければ、私はとっくの昔にギブアップしていたに違いない。
 足枷が無くなり、心も体も不思議と軽くなる。昨日とは比べ物にならないくらい、今日はものすごく仕事がはかどった。

 ところが……その日の夜、上向きかけた調子を打ち崩す事件が起きてしまう。
 仕事を終え、保育園から家に戻ってきた李都は、病み上がりだからかものすごくテンションが高い。体が軽くなったことがよほど嬉しいのか……元気が良いを通り越して、もはや暴れ回っていた。
「李都~そろそろおとなしくしなさいっ」
「やだねー!」
 日が沈んで外が真っ暗になっても、そんな状態が続いている。こっちはやらなきゃならない家事が山ほど残っているのに、今日は動画サイトを見せても効果が無い。怒ってはダメだ、本人に悪気は無いと分かっていても……徐々にイライラが募っていく。
 そして──頭を抱える私の目の前で、李都は畳み終わった洗濯物を勢いよく蹴り飛ばした。抑えていた感情が、決壊したダムのように音を立てて流れ出された。

「李都!! いい加減にしなさい!!」

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