(五)
「出かける準備できた?」
妻の小百合が寝室のドアを開けて顔を覗かせる。
「ああ、すぐ行くよ」
慎一郎は振り返って答え、上着を手に取ってクローゼットの扉を閉めた。
一階に降りていくと、小百合と息子の稔がすでに玄関で靴を履いて待っていた。小百合は弁当を入れたクーラーバッグを、稔はお気に入りのリュックを背負っている。
「お父さん、早く早く」
稔が急かしてくる。
「はいはい」
慎一郎は笑いながら息子の頭に手を置いた。
先月、十歳になった稔は、年齢のわりには少し幼いところがあるように思う。身長も同年代の子供に比べると少し小柄だ。
テレビでコアラの特集を見て動物園に行きたいと言い出し、日曜日の早朝から出かけることになったのだ。
玄関を開けると、気持ちのいい朝の日差しが差し込んでくる。空には細切れの雲が浮かんでいた。見事な秋晴れだった。
「おお、今日は動物園日和だな」
慎一郎はそう言って車に乗り込み、カーナビの設定をした。
日曜日の動物園は家族連れで賑わっていた。
入口でチケットを買い、ゲートをくぐる。
「荷物、持つよ」
「ありがとう。じゃあお願い」
小百合はにっこりと笑ってクーラーバッグを手渡した。
二歳歳上の小百合は四十六歳になるが、二十代の頃と変わらず美しい人目を引く容姿だ。
会社のバーベキューなどに家族で行くと必ず「綺麗な奥さんで羨ましい」「とても四十代には見えない」と称賛される。
当然だ、と思う。それだけ金をかけているのだから。
最近では肌のハリの衰えを気にしてか、高い化粧品を買い込み、エステにも足繁く通っているらしい。
慎一郎は若い頃から女に困ったことはなかった。特別容姿がいいというわけではないが、どういうわけか女のほうから寄ってくるのだ。
だが、どの女にも本気にはなれなかった。
二十代の頃、東京で働いていた小百合と出会い、一目惚れをした。あれほど積極的に、自分から口説いたのは生まれて初めてだった。
その後結婚し、息子が生まれた。
「お父さん」
稔が無邪気に手を差し出してくる。
その手をとって歩く。
三人並んで手を繋ぎながら動物を見て歩く。
美しい妻と可愛い息子。
自分の家を建て、生活にも余裕がある。
誰から見ても幸せな家族だろう。
そう、俺は幸せだ。
なのに、時々、どうしようもない不安に襲われる。
本当にこれでよかったのか。
どこかで間違えてはいなかったか。
自分のいるべき場所は本当にここなのだろうか。
わからなくなる。
あいつのせいだ。
あいつが、あんなことを言うから――。
「ねえねえ、コアラって一日に二十時間も寝るんだって」
稔が慎一郎の手を引いて言う。
「ほとんど寝てるじゃないか。羨ましいな」
慎一郎は笑いながら答えた。
『コアラはユーカリに含まれる毒素を分解するため、1日18時間〜20時間眠ります。エネルギーを節約するためでもあります。』
と説明書きに書いてある。
それだけ時間をかけなければ分解できない毒を食べながら生きているなんて、要領の悪い生き方だなと思う。
木に登ってじっとしているコアラは、寝ているのだろうか。
とくに可愛いとは思わないが、コアラを見てはしゃいでいる息子を見ていると微笑ましい気持ちになった。
「お腹空かない? そろそろお弁当にしようか」
小百合が言った。
「そうだな」
「えーもうちょっと」
「はいはい、じゃあもう少しねー」
小百合がおかしそうに笑う。
幸せだ、と慎一郎は楽しそうな妻と息子を眺めながら、確認するように思った。
他人の言葉に惑わされる必要などない。
何も間違ったことなどしていないのだから。
昼過ぎまで動物園を満喫し、近くのショッピングモールで買い物を終えると、もう日が陰り始めていた。
「もうクタクタ。ちょっと靴擦れしちゃった」
小百合はかかとを押さえながら助手席のドアを開けて乗り込む。
稔は後部座席のモニターでアニメのDVDを観ていたが、途中からは寝ていた。はしゃぎ疲れたのだろう。
小百合は隣でスマホをいじっている。信号待ちのときに横目で覗き見ると、SNSのページが見えた。
クタクタだと言いながら、SNSを更新する元気はあるらしい。
「そうそう、明日出張だから」
どこに、と訊かれるかと思ったが、小百合は顔を上げず、
「そう」
と興味もなさそうに答えた。
慎一郎はスピーカーから流れる音量を少しだけ上げた。沈黙は苦手だった。
下道でのんびり帰ろうと思っていたが、カーナビに渋滞情報が示されているのを見て高速に乗り換えた。
買い物袋を両手に抱えて車を降りた。
「稔、着いたぞー、ほら起きろ」
稔の肩を叩いて起こす。
夕暮れに包まれた向かいの公園に、人影が見えた。
暗がりで姿はよく見えなかった。
「今日の夕飯は何にする?」
「うーん、ハンバーグ」
「いいね、決まり」
「疲れてるだろ。俺も手伝うよ」
他愛もない会話をしながら家の中に入る。
「あっ、僕その前に隣行ってくる」
靴を脱ごうとしていた稔が、何か思い出したように言った。
「もう夕飯時だしご迷惑じゃないか?」
「すぐ帰ってくるから」
と言って、飛び出していった五
「稔、西野さんが大好きねえ。あたしはあの人、噂好きだしちょっと苦手なんだけど」
「まあ、可愛がってもらってるしいいんじゃないか」
慎一郎は苦笑しながら言った。
「お隣さんとはいえ、あまり距離が近いのもどうかと思う」
と小百合は不満そうだ。
西野さんとはお隣の六十代の女性だ。朝、仕事に行くときなどに犬の散歩に行く彼女と顔を合わせるが、近所の噂話など誰彼構わず喋るので、あまりプライベートなことは話さないようにしている。
稔は可愛がってもらえるのが嬉しいのか、しょっちゅう隣に行っているようだった。向こうも孫とはなかなか会えないらしいから、余計に隣の子供が可愛く思えるのだろう。
鞄の中でマナーモードにしているスマホが震えた。明日会う予定の相手の名前が画面に表示されているのを見て、小さく嘆息した。
書斎に入ってから通話ボタンを押す。
「はい――」
五分ほどで話を終え、夕飯を作るためにキッチンへ向かった。
