(十八)
「菫さんはこれからどうするの」
帰りの新幹線で、良介が尋ねた。行きと同じように、駅で買った缶コーヒーを飲みながら。
その質問は、これからの行動だけでなく、良平と、そしてあの家との関係を続けるかどうか、という意味も含まれているのだろう。
「わかりません」
菫は思ったことをそのまま伝えた。
「わからないので、もう少し考えてみようと思います」
「そう」
良介は神妙な顔でうなずいた。
「よく考えたほうがいい。血縁のある僕と違って、あなたはいつでも関係を解消できるのだから」
翌日、遠野夫妻は病院で受け取ったカルテを警察に持って行き、息子の捜索願を出した。
十五年間、行方不明になっていた息子として。
その報告を遠野氏から電話で受けて以来、ずっと気がかりな日々を過ごしている。
あれから一週間が経つが、まだ何の続報もなかった。結果がわかるには時間がかかるのはわかっているけれど、どうしても気になって、一時間に一度は携帯を見ていた。
遠野慎一郎の歯形は十五年前に発見された遺体のものと一致しただろうか。
すべて自分の勘違いだったならと願った。
それは遠野夫妻の心境を思ってのことだ。
しかし、その可能性は限りなく低いだろうということもわかっている。
もしまったくの別人だったとしたら、赤の他人であるはずの良平が、十五年間も別人のふりをし続けられるはずがないのだから。
もうありもしない希望を持つのはやめよう、と思った。
あのカルテを受け取った日、自分はもう良平の妻ではなくなったのだ。いまの自分は、事件についての情報提供者の一人だった。
小学生の男の子が、心配そうに補助についている日向子を見上げて尋ねる。
「ほんとにすぐ終わる?」
初めての虫歯の治療が怖いのだろう。顔いっぱいに不安を浮かべている。
「うん、すぐに終わるよ。痛くないお薬塗ったから大丈夫」
日向子がにっこり笑いかけると、男の子は少し安心したようにうなずいた。
麻酔が効いてきた頃合いを見て治療を開始する。
エアタービンで患部を削っていく。キーンと甲高い機械音が響く。男の子はじっと目を閉じ、口を大きく開けている。手元を見ると、両手をギュッと握りしめている。不安ごと手の中に押し込もうとするように。
黒ずんで柔らかくなった部分を掻き出し、洗浄してから薬を塗る。
「はい、もう終わったよ」
日向子がユニットを起こして、うがいをするように言った。
「頑張ったわね」
菫は男の子が握りしめていた手を思い出して、声をかけた。
男の子が菫を見上げて、
「うん!」
と大きくうなずいた。
「先生が患者さんに声をかけるなんて、珍しいですね」
男の子を見送ってから、日向子が意外そうに言った。
「子供は苦手じゃありませんでした?」
「そんなことを言った覚えはないけど……」
言いたいことを言う日向子に、菫は苦笑をこぼした。
いつも治療後の説明などはスタッフに任せてすぐに立ち上がるので、そう思われるのも当然だろう。
とくに子供相手だと、ただでさえ顔が怖いと言われているのに余計に怯えさせてしまう気がして、余計に素っ気ない態度をとってしまっていた。
「最近、子供と話す機会が増えたからかもしれない」
自分でも驚くほど、自然に笑顔を向けることができた。できないのではなく、怠ってきただけなのだ、と四十を過ぎて気づく。
「親戚の子とかですか?」
「知り合いの子よ」
実際には一度も会ったことのない子供なのだけれど、と心の中で付け足した。
「そういえば最近院長先生と副院長先生、今週は顔を出さないですねえ」
日向子が器具の片付けをしながらつぶやく。
「学会の準備で忙しいんじゃないかしら」
「まあ、そのほうが気が楽でいいですけどね」
本人がいないのをいいことに、言いたい放題だ。
前に学会のことについてそれとなく尋ねたことがあったが、
『あなたは気にしなくていいのよ。そういうのは私たちに任せて、業務に専念して、ね』
と肩を叩かれた。
たしかに学会などで顔見知り程度の医者などと会話をするのは苦手なので、自分よりよほどコミュニケーション力の高い義父母のほうが適任だと考えて、それ以来干渉しないことにしてきた。
とはいえ、週に一度は医院に顔を出してあれこれ忠告をしに来ていた義母が、今週は一度も顔を見ていない。
今日、仕事が終わったら、様子を見に行こうと思った。
『血縁のある僕と違って、あなたはもういつでも関係を解消できるのだから』
良介の言葉を思い出す。
法律では、配偶者の生死が三年以上明らかでない場合、離婚が認められる。
家を出たきり完全に消息不明であること、家族や友人も行方を知らないこと、などの条件も満たしている。
つまり自分たちは、手続きさえすれば、いつでも他人になることができる状態なのだった。
「どうするの、か」
院長室のドアを閉め、椅子に腰を下ろして天井を仰いだ。
両親との折り合いが悪く親戚もほとんどいなかった菫にとって、平川家は血が繋がった家族よりも近い存在だった。
だから夫がいなくなってから十五年経っても、家族でい続けたのだ。
手続きをすれば、平川家と菫は他人になる。
この医院を離れることになるかもしれない。
でも、それはいまじゃない、と思っていた。
すべてのことに決着がつくまでは、この家の一員でいよう。
それが菫が出した答えだった。
医院の鍵を閉めて、義父母の家に向かった。
何の連絡もしていないから不在かもしれないと思ったが、義父が扉を開けた。
「菫さん、何かあったのか」
義父が驚いたように言う。
「いえ、遅くにすみません。最近こちらにいらっしゃらなかったので、様子を見に来ただけで」
「そうか、すまないね。妻が体調を崩しててね」
「そうだったんですか。何か必要なものがあれば言ってください」
そう言うと、義父は大袈裟に手を振った。
「いやいや、大したことじゃないんだ。寝てればすぐ治るよ」
体調を崩しているのなら長居しては悪いと思い、義母には顔を見せずに家を出た。
木曜日の午後、稔に電話をかけた。
だが、出なかった。電話をかける時間は決まっていたから、いつもなら二回呼び出し音を聞けばすぐに出るのだが。
一度切って、もう一度かける。やはり出ない。
稔との電話のやりとりが始まって三ヶ月が経つが、出ないのは初めてだった。
たまたま親が家にいて出られないのだろうか。でも、それなら稔の代わりに誰かが出るはずだ。
その場合、やむを得ず無言電話を使うことになるのだが——
何かあったのだろうか。
嫌な胸騒ぎがした。
両親と喧嘩をした程度のことならいい。
でももし、何か、知りたくないことを知ってしまったのだとしたら。
直接顔を合わせたことは一度もない少年を、短い電話のやりとりを続けるうちに、いつしか身近な存在に感じるようになっていた。
本来ならば、菫とは何の関係もなかったはずの子供。
その見ず知らずの子供が、菫を頼って電話をかけてきた。
『ぼくの家族のことを知りたい』
その純粋で、真剣な願いを、叶えてあげたいと思った。
たとえその子が自分を捨てた夫とほかの女の子供だったとしても。
あの少年は、毎週電話で話をしている相手が自分の父親の本当の妻だと知ったら、どう思うだろう。
いっそ全部話してしまおうか。
あなたのお父さんは、他人のふりをして生きている偽物なのよ、と。
それを伝えるために、毎週律儀に電話をかけていたような気さえした。
そんな悪魔みたいな思いを吐き出さずに済んでよかった、と安堵した。
一週間後の木曜日にも電話をかけた。やはり出なかった。
電話口に虚しく呼び出し音が響くだけだった。
その日の夕方、ソファに座って本を読んでいたときだった。
チャイムの音に顔をあげ、立ち上がってインターホンを見る。
画面に見覚えのない二人組が映っていた。
見覚えのない二人組といえば、数ヶ月前にも警察が尋ねて来たことがあった。画面に映っているのは、前とは違う顔だった。
ドアノブを握る手が強張った。
また和田の件で何か進展があったのだろうか。それとも——
ドアを開けると、男性の刑事が言った。
「突然すみません。宮城県警の阿部と申します」
名前を確認され、そうですとうなずく。
「伺いたいことがあるのですが、少しお時間いただけますでしょうか」
宮城——ドクン、と心臓が大きく鳴った。
宮城の刑事が自分のところへ来る理由は、一つしか考えられなかった。
おそらく、結果が判明したのだろう。
カルテの歯形と、十五年前に発見された遺体の歯形が、一致したのだ。
そして、警察はすでに死んでいるはずの遠野慎一郎になりすましている偽物を追っている。
外では話しづらい内容だというので、ドアを閉めて中に入ってもらった。
「失礼ですが、ご主人は十五年前に行方不明になっていますよね」
「ええ」
「それから戻ってきたことは?」
ありません、と言いかけて、やめた。
「去年の秋に一度だけ」
名前も顔も変えていることは、すでに知っているのだろう。
そうですか、と刑事が顔を歪めた。
「ご主人が、いなくなったんです」
「え……?」
「確認していた住所を尋ねましたが、いませんでした。奥さん、何か知っていることはありませんか」
刑事の話を聞きながら、菫は突然連絡がとれなくなった稔のことを考えた。
十五年前に自分の前から姿を消した夫が、再び姿を消したという。
それも今度は一人ではなく、同じ家で暮らしていた“家族”もろとも、いなくなったのだと。
