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『喫茶ネリネで会いましょう』第9話

2025年8月22日 投稿

(九)

「喫茶ネリネって、ここ?」
 長い髪の女性は、扉を開けて入ってくるなり、そう言った。
「ほんっと、わかりにくかった。看板くらい出しといてよ」
 長い髪を乱暴にかき上げ、苛立つように彼女は言う。
 暖かい日差しが差し込む喫茶店にあまりにも似合わない風貌に、舞はぎょっと目を見開いた。
 ざっくりと大きく開いた胸元、体のラインが線を描くようにわかるタイトな赤いドレス、スリットが太ももまで大胆に入っていて、スラリとした足があらわになっていた。
「ええ、そうです。いらっしゃいませ」
 かおるさんはにっこりと対応する。
「お好きな席にどうぞ」
 どんな人が来ても、いっさい対応を変えず、いつも穏やかなのがかおるさんのすごいところだ。
 棒のようなピンヒールをわざとのように響かせながら、彼女は窓際の、舞の二つ隣の席に足を組んでどかっと腰を下ろした。
 舞はいつものように、やってきた客をさりげなくチェックする。
 目のやり場に困る露出度の高いドレスに、明るい茶色の巻き髪。長く日本を離れていた舞にも、その特徴的な出で立ちは、おそらく夜の仕事をしているのだろうと思わせた。
 イギリスには、日本でいうキャバクラのような店はほとんどない。ナイトクラブや、ダンスやショーを鑑賞するキャバレーなどはあるけれど、日本のそれとは違うものだ。
 といっても、舞はそういう場所に行ったことは一度もなかった。知らない人ばかりが集まって飲むのは危険だし、楽しそうだとも思わなかった。だから夜の街の情報は、ほとんど瑠夏から聞いて知ったものだ。
『絶対楽しいって。舞も一緒に行こうよ』
 と誘う瑠夏に、気をつけなよ、私は行かないけど、といつも苦い顔で答えていたのだ。
 瑠夏はネオンの光に誘われる夜行性の蝶のように、毎晩、レッスンが終わると、夜の街に繰り出していた。ナイトクラブで出会った男と恋に落ち、すぐに寮を出て、一緒に住みはじめた。
 そんな生活をしていても、瑠夏は不思議と、レッスンを休んだことは一度もなかった。夜出歩いていたことなんて嘘みたいに、光につつまれながら足を高く上げて舞うのだった。
「ご注文はお決まりでしょうか」
 かおるさんが女性のテープルにやってきて尋ねる。
 ああ――また、意識が飛んでいた。
「ねえ、このガスパッチョ風ってなに? トマトジュースなの? ハーブティーなの?」
「そちらは夏限定のドリンクで、ブレンドハーブティーにトマトジュースを加えたものです。冷製スープのような感覚で、あと味もすっきりしていておすすめですよ」
 かおるさんが滑らかに説明した。
「ふうん。じゃあ、それで」
 彼女はそう言うと、小さなバッグからスマホを取り出して、いじり始めた。
 長い髪がはらりと落ちて、俯いた横顔を隠す。
 ドキリとした。その声――もっと言えば、耳馴染みのある言葉のクセに。

『ねえ、それなに? ジュースなの? 紅茶なの?』

 舞はいつも、魔法瓶にハーブティーを入れて持ち歩いていた。母お手製の、体にいいものだけを凝縮したハーブティーだった。
 甘い香りのハーブティーを飲んでいたとき、誰かにそう言われた。誰だっただろう。
 どうしてか、消しゴムで乱暴に消したみたいに、思い出せない。
 昔、彼女に会ったことがあるのだろうか。ないとは言いきれない。けれど、何も思い出せない。
 化粧が濃いからかとも思ったが、舞は舞台で濃い化粧を見慣れているので、そこから素顔を浮かべるのは容易だった。
 なのに、何も、思い出せない。
 まるでその記憶に固くふたをしているみたいに。
「お待たせいたしました。ローズヒップ、ネトル、タイム、トマトジュースのハーブティーでございます。お好みでライムと一緒にお召し上がりください」
 かおるさんが、グラスに入った真っ赤なハーブティーをテーブルに遅く。
「それではごゆっくり」
 にっこりと笑みを浮かべて、立ち去ろうとしたとき。
「――あの!」
 と、彼女がかおるさんを呼び止めた。
「ここのウワサ、ほんとなんですか。死んだ人に会えるって」
「はい。噂は本当ですです。お互いが強く会いたいと願ったときのみ叶います。ですが、必ず会えるというわけではありません」
「そっかー。お互いが、ね」
 彼女は自嘲気味に笑った。
「じゃ、ムリだ。あいつがあたしに会いたいわけないもん。自分の子供がここにいるってわかったら、幽霊になってもビビって逃げ出しそうだし」
 彼女は平らなお腹に手を当てて言った。
「それでは、あなたが会いたいのは……」
「そう。妊娠したとたん、あいつ、ホストだったの。アル中で病院運ばれて、そのままいっちゃった。最悪でしょ?」
 笑いながら言う。でも、その声は、泣いていた。
 ほんのわずかだけれど、震えているのがわかった。
 その声が、ふいに、遠い記憶の中の女の子と重なった。
『最悪』
 女の子は、舞を睨んで言った。
『なんでアンタなの? あたしのほうが上手いのに。あたしのほうが先にはじめたのにっ!』

 ――あ。

 そうだ。
 思い出した。
 幼い頃通っていた、同じバレエスクールに通っていた子だ。
 いつも舞に突っかかってきた。
 自分より後からバレエを始めた舞が、プリマに選ばれたとき。
 そう言われたのだ。

 ――花音。

 ああ、そうだ、そういう名前だった。
強気で、負けず嫌いで、言いたいことを何でも言う。そんな子だった。
 あのときも、花音は泣いていなかった。
 両手が震えるほど強く握りしめて、私を睨んでいた。
 でも、あとほんの少しでも気を緩めたら、泣いてしまうだろうとわかった。
 どうして忘れていたのか。
 思い出したくなかったからだ。

 ーーかわいそう? そんなこと、全然思わない。あなたが何年やっているかなんて、私にはまったく関係ない。

 日本で過ごした子供時代は、窮屈な思い出しかなかった。
 頑張れば頑張るほど、まわりの子やその親たちから妬まれるようになった。
 舞は決して天才ではなかった。努力を地道に重ねて、必死にトップまで駆け上がった。でも、そのすべてを周り人たちが見ているわけじゃない。
 だから、なんであんな普通の子が。そう思われたのだ。
 年に何度もあるコンテストでしょっちゅう学校を休んだ。友達の輪には当たり前のように入れてもらえなかった。
 学校でも、スクールでも、家でも、舞は一人だった。
 スクールに瑠夏が入ってくるまでは。
 誰も自分の気持ちなんてわかってくれない。そう思っていた。
 思い出したからといって、わざわざ関わる必要はどこにもない。
 そもそも舞は、彼女のことが好きじゃなかったのだ。
 でもーー
 目の前で泣いている女性はどこから見ても大人なのに、中身はちっとも昔から変わっていない。意地っ張りな女の子のままだった。
「ごちそうさま。おいしかったです」
 花音はそう言うと、席を立ち上がってレジに向かった。
 出ていってしまう。
 そのまま出ていったらもう、花音はおそらく二度とここには来ないだろうとわかる。
「花音」
 会計を終えた花音が出ていこうとしたとき、私は思わず、そのむき出しの細い腕を掴んでいた。
「えっ、なに」
 花音はぎょっとして舞のほうを見た。
「いきなりごめんなさい。私、舞。昔バレエスクールで一緒だった……」
「舞?」
 花音は、もっと目を見開いて、あり得ないものを見たように舞を凝縮した。
 花音は血の気の引いた白い顔で声を震わせながら、
「うそ……なんでアンタがここにいるのよ?」
 と言った。

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