
(三)
住宅街のはずれにひっそりとたたずむ喫茶店『喫茶ネリネ』には、不思議な噂があった。
“会いたい人に会える”
必ず会えるとは限らない。
いつ会えるかもわからない。
ただ、お互いの“会いたい”という強い思いが、その奇跡を引き寄せるのだ。
店内はいつもうっとりするような花の香りに満ちていて、注文を受けると、店主のかおるさんは注文を受けると棚から小瓶を手にとって、薬の調合でもするみたいにハーブやスパイスをブレンドし、あっという間にオリジナルのハーブティーを作り出す。
その華麗な手さばきに、舞はつい見惚れてしまう。
「お待たせいたしました。ネトル、マルベリー、リンデン、ヒースのブレンドハーブティーと白桃のシャーベットでございます」
かおるさんが舞の前にカ゚ラスのティーカップとハーブ入りのポットを置く。それと白く瑞々しいシャーベット。
いただきます、と舞はスプーンでシャーベットをすくい、感嘆の息を漏らした。
夏らしい爽やかな白桃の甘みが、とろりと口の中に広がる。
「甘くておいしいです」
かおるさんはふふっとほほ笑んで、
「ありがとうございます。では、ごゆっくり」
と言って定位置、つまりカウンターの奥に戻っていく。
舞が頼むのはいつも同じハーブティーだ。血圧を下げる作用や、糖の吸収を抑える作用があるという。常に体型を気にしする生活をしてきた舞には、ありがたい飲み物だった。
まずは杯目をゆっくり味わって飲み、ポットに残っている残りを注いで二杯目を堪能する。
舞はすっかりこの喫茶店の常連になっていた。
優しい香りのハーブティーに、果物の甘みをしっかりと感じられるシャーベット。
始めは食べるのに抵抗があった。幼い頃からアイスは毒だと教えられてきたからだ。
でも、今では躊躇ったりしない。一度取っ払ってしまえば、罪悪感などないに等しかった。
こんなにおいしいものを知らなかったなんて、もったいないことをしたと思うほどだ。
幸福感に満たされながらちびちびとシャーベットを口に運んでいたとき、扉が開いた。
入ってきたのは、四十代前後の女の人だった。
「こんにちは、早苗先生」
かおりさんが言う。
「……こんにちは」
“早苗先生”と呼ばれた女の人は、ぎこちない笑みを作って言った。
「お久しぶりですね」
かおるさんがテーブルにおしぼりを置いて言う。
「ええ……このところ忙しくて」
早苗先生が弱々しくうなずく。
「そうでしたか。ご注文はどういたしましょう」
「9番のブレンドハーブティーをお願い」
かしこまりました、そう言って、かおるさんはふいに尋ねた。
「失礼ですが、最近、よく眠れていますか?」
「えっ」
早苗先生が驚いたように顔を上げた。
眠れていないだろうことは明らかだった。彼女の目の下には、くっきりとクマが浮いていたから。
苦笑して、全然、と首を振る。そして続けた。
「あの事故から、目をつぶるとついいろいろ考えちゃって、あんまり眠れなくてね……」
「あの事故というのは、先月の、ですよね」
かおるさんは、その事故についてよく知っているようだった。帰国したばかりの舞は、知らない話だ。
「そう。その子ね、保健室登校をしていたの。毎日顔を合わせてたけど、思いやりがあっていい子だった。そんな子に何もしてあげられなかったのが情けなくて……」
その声は、苦しそうだった。どこにも出口がない暗闇を、一人で彷徨っているようだった。
「もしよければ、お話を伺ってもよろしいでしょうか。お力になれるかはわかりませんが、言葉にするだけで気持ちが軽くなることもありますから」
かおるさんが言った。
「……いいんでしょうか。こんな重い話をしても」
かおるさんがちらりと舞に目配せをして微笑んだ。
〝ここにいてもいい〟そう言ってもらえたような気がした。
「ええ、ここで聞いた話は、絶対に口外しないと約束します」
かおるさんが真顔で言うと、疲れを滲ませた早苗先生の表情が少しだけ和らいだ。
「かおるさん、喫茶店もいいけど、カウンセラーも向いてるんじゃない?」
「そうでしょうか?」
かおるさんはほほ笑んで言った。
「では、お茶を飲みながら聞かせていただきます。少しお待ちください」
かおるさんがガラスのティーカップとポットを早苗先生の席に置く。
「お待たせしました。マテ、ローズマリー、ペパーミント、ラズベリーリーフのブレンドハーブティーです。血行促進や、記憶力を高める効果があります」
それから、小さなブロック型のケーキも。
帽子みたいな生クリームに、小さなミントの葉っぱが添えられている。
――あれっ、シャーベットじゃないんだ。
気になったが、邪魔をしてはいけないと思い黙っていた。
「こちらはサービスのシフォンケーキです。生クリームにレモンを少し混ぜています」
「ありがとう」
早苗先生がほのかにピンク色に色づくハーブティーが入ったカップを両手で包み込むようにして、口に運んだ。
そして、話し始めた。
毎日、保健室に通っていたしていた一人の少女の話を。
早苗は『喫茶ネリネ』の近くにある中学校の養護教諭だ。今年で二十年目、すっかりベテランと言われる歳だ。これまでに三回転勤し、非常勤も合わせると五つの学校を見てきた。
学校の保健室では、病気や怪我をしたとき、本格的な治療ができるわけではない。怪我をしたら応急処置はするが、ちゃんとした処置はできない。体調が悪ければベッドで休ませることはできるが、薬の処方などはできない。
だからこそ、病院とは違う、生徒が困ったときに気軽に頼れる場所であってほしい。早苗はいつもそう思っていた。
保健室登校の生徒が必ずいるわけではなかったが、保健室を頼りにやって来る生徒は、どこの学校でも必ず何人かいた。体調不良や怪我ではなく、心の拠り所として。
早苗は人の話を聞くのが好きで、世話を焼くのも好きだった。子どもがいないが、子どもも好きだ。だから、この仕事は天職だと思っていた。
それに早苗自身、学生時代、養護教諭によく話を聞いてもらったことがきっかけで、この仕事を目指したのだった。
幸い、これまでどこの学校でも生徒たちは早苗に馴染んでくれていたが、いつも上手くいっていたわけではない。なかなか心を開いてくれない生徒や、不登校になってそのまま学校を辞めてしまった生徒も中にはいた。
そこまでする必要はないと知りつつも、生徒の自宅を訪ねて行ったことも何度かあった。煙たがられたことも、暴言を吐かれて追い返されたこともある。それでも、せめて早苗の働く学校の生徒であるうちは、気にしていたかった。誰か一人でも、あなたのことを気にしている人がいることを知ってほしかった。
冴島南が保健室にやって来たのは、半年前の秋頃だった。
『こんにちはー。ちょっと疲れたから休んでいいですか?』
南はよく通るはっきりとした声で言った。ちっとも疲れているようには見えなかったが、保健室で休みたいという生徒を拒むことはしたくない。
それに、本当はほかに理由があることもわかっていた。
『どうぞ。でも一応、問診はさせてね』
『はーい』
短い肌によく日焼けした肌。見た目だけなら、元気で明るい少女そのものだった。
その日は一時間寝て教室に戻って行っただけだったが、それから少しずつ、保健室に来る頻度が高くなっていった。
そして冬になる頃には、朝から放課後まで、一度も教室に行くことはなくなっていた。
南がいじめられているというような話は聞いたことがない。宿題も予習も毎日きっちりこなし、話していても、言いたいことははっきり言うタイプだった。教室にいれば、学級委員などを務めていそうなしっかり者だった。
一度、それとなく何かあったのか、尋ねたことがある。悩んでいるなら、話を聞くだけでもできないかと思ったからだ。
『うーん、なんか、疲れちゃったんだ。でも親は学校に行けって言うし、教室にいると疲れるし。だから、保健室。ここならいつでも昼寝できるしー。でしょ?』
南はベッドにゴロンと仰向けになって、からりと楽しそうに笑うのだ。
年が変わり、春休みが来て、南は一年生から二年生に進学した。
クラス替えもあったし、一度教室に行ってみるかと打診したことがあるが、あっさりと首を横に振った。
『行かなーい』
保健室登校でも、宿題や勉強をこなし、定期テストをちゃんと受けていれば、中学は卒業できる。成績面では、南は優秀だったからだ。
教室に行きたくないのなら、無理に行く必要はない。教職に就いている者としてその判断が正しいのか、いまだに答えは出ないけれど、早苗はそう考えていた。
早苗は結婚して十三年、若い娘は子供を望んでいたが、いくら望んでもできず、徐々に諦めていった。
だからだろうか。毎日接している生徒たちを、たまに自分の子供のように思うことがある。
南のことも、そうだった。
毎日顔を合わせ、一緒に給食を食べながら話をしているうちに、愛着を超えた愛情が湧いてくる。
きっと、この子たちが卒業してしばらくは、喪失感でいっぱいになるだろう――これまでにも何度か、そういう経験があった。
たぶん南は、自分に本当の意味で心を開いてくれてはいなかったのだろう。それを薄々感じていた。
もしかすると卒業するまで、一度も本音を聞くことはできないかもしれない。
それでもよかった。
卒業するまで、保健室が居場所になるなら、いいと思っていた。
卒業式の日、笑ってこの子たちを見送ることが、早苗の願いだった。
でも――その日を迎えることは叶わなかった。
「あの事故ですね」
かおるさんが痛ましそうに早苗を見つめて言う。
早苗先生がええ、とうなずいた。
「無理をしないでください。お辛いでしょうから」
「いえ、何をしていても、考えてしまうから」
早苗先生は苦しそうに言って、カップを傾け、それからまた話し始めた。
五月、新学期から一ヶ月が経った頃、学校の近くで交通事故があった。
南が車に轢かれたのだ。下校より少し遅い時間だった。まだ日が暮れるには早かったが、雨が降っていて辺りは暗く、視界が悪かった。
すぐに救急車で運ばれたが、病院で間もなく息を引き取ったという。
翌朝、学校は大騒ぎになった。職員会議が開かれ、そこで知った新たな事実に、早苗は全身から血の気が引いていくのを感じた。
運転手の話によると、南は自分から赤信号の道路に飛び出したということだった。
いったい、南に何があったのか。
前日、保健室にいたときの南はいつもと同じように明るく振る舞っていた。
いつもと違うところはどこにもないように見えた。
それとも、自分が何も見えていなかっただけなのだろうか。
その日から、早苗は眠れなくなった。
目を閉じると、南が何かを訴えるような目で早苗のほうを見ているような気がするのだ。