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『喫茶ネリネで会いましょう』第7話

2025年7月25日 投稿

(七)

 ここに通うようになって、どれくらいになるだろう。
 舞はハーブティーができるのを待つ間、ぼんやりと考えた。
 初めてここを訪れたのは、桜の季節だった。いつの間にか、季節は夏の色を帯びている。
 こんなことをしている場合じゃない、と焦りが募る。けれど、じゃあどうすればいいのか、ほかにどこへ行けばいいのか、わからなかった。
 いや、本当はわかっているのだ。やるべきことも、行くべき場所も。その勇気が、まだないだけで……。
 だけどその焦りも、『喫茶ネリネ』の扉を開き、甘やかな花の香りのハーブティーを飲めば、たちまち消え去ってしまうのだった。
 かおるさんは今日もにこにこと微笑みを浮かべながらカウンターに立っている。
 不思議な人だ。年齢も、どういう生活をしているのかも、まったくわからない。それなのに、すべてを委ねたくなってしまう安心感がある。
 そのかおるさんの表情が、あるとき、少しだけ揺らいだことがあった。
 この喫茶店には珍しい、若いお客さんがやってきたのだ。
 ブレザーの制服を着た男の子と女の子の二人組だった。中学生だろうか。高校生にしては、まだ少しあどけなさが残っているような気がする。二人してなんだかそわそわして、落ち着かなさそうだった。
 そのとき、ちょっとやそっとじゃ動じないかおるさんが、動揺しているように見えた。が、それは一瞬のことで、すぐににこやかな笑みに戻った。
「あら。いらっしゃい」
 かおるさんがお皿を洗う手を止めて言った。
「今日、テスト明けで早かったからちょっと寄ってみた」
 と男の子が言った。
「そうなの。テストどうだった?」
「うーん、まあまあ……って、何ニヤニヤしてるんだよ、母さん」
 母さん!?
 男の子が放った一言に、私は驚愕した。
 いま、母さんって言った?
「ニヤニヤなんてしてないわよ。ね、若菜ちゃん」
 かおるさんは、女の子にむけてにっこりと笑いかけた。
 肩までの髪を結んだ女の子は恥ずかしそうに、こくりとうなずいた。
「森田が母さんの店に行ったっていうからさ、俺もたまには顔出してやろうかなって。こういうとこ、一人じゃ来づらいから」
「律はまだお子様だもんね」
 かおるさんがくすりと笑った。
 男の子は律というらしい。
 それにしても、どう見ても二十代にしか見えないのに、中学生の息子がいるなんて……。
 つくづく年齢不詳だ。
 もしかして、ハーブティー効果で若返ってるとか? ますますかおるさんが魔女じみてきた。
 おっとりした雰囲気のかおるさんと、はっきりした顔立ちの律くん。印象は違うけれど、よく見ると、二人はどこか似ていて、本当に親子なのだと思った。知らなければ、間違いなく姉弟と勘違いしていただろうけれど。
「二人とも、ゆっくりしていってね」
 かおるさんが水の入ったグラスを置いて言った。
 窓際の席で二人はメニューを眺めながら、何にしようか悩んでいるようだった。
「俺、これ。『飲むと嬉しくなる』ってやつ」
 律くんがメニューを指して言った。
「あ、じゃあ、私もそれで……」
 若菜ちゃんがおずおずと付け足す。
「かしこまりました」
 かおるさんがにっこりと微笑む。
「テストが終わったんだもの。最高にハッピーよね」

 私が座っている席のひとつ空けて隣だから、意識しなくとも視界に入る距離だった。
 視界に入るついでに、勝手に二人の関係を想像してしまう。
 付き合っているのだろうか。いや、どことなくぎこちないから、そういう関係ではないのかも。友達と恋人の狭間みたいな、名前のつけがたい関係。
 もっとも、舞には恋愛経験がないから、見ただけではよくわからなかった。
 興味がないといえば嘘になる。けれど、舞の十代はバレエ一色だった。恋愛の入りこむ余地はどこにもなかった。これまでの時間を一冊の本にしたら、バレリーナの写真集みたいになるだろう。それくらい、生活のリズムや食事や人間関係、意識の隅々までバレエで埋め尽くされていた。
 不器用なのだ。自分でも嫌になるほど。一つのことに集中すると、ほかのことがいっさいどうでもよくなってしまう。
『舞もボーイフレンドくらい作ったらいいのに。愛する人のそばにいられるって、幸せなことよ』
 瑠夏にはよく、からかい半分でそう言われていた。
 瑠夏には長く付き合っているボーイフレンドがいた。結婚の話は聞かなかったけれど、ほとんどパートナーのような存在だったと思う。実際、あの気分屋で忙しい瑠夏と、めったなことでは怒らない温厚な彼は、誰から見てもお似合いのカップルだった。
 幸せそうな二人をそばで見ていても、そういう存在は自分には不要だという考えは変わらなかった。
 バレエと親友。その二つさえあれば、十分だった。

「お待たせしました。レモンバーベナ、ネトル、マルベリー、ローズヒップのブレンドハーブティーです。レモンバーベナには、ストレスや不安を和らげるリラックス効果のほかに、気分を高揚させてくれる効果もあるんですよ」
 かおるさんが滑らかに説明する。
「それと、こちらはレモンシャーベット。今日はレモン尽くしね」
「俺、レモン大好き」
 と律くんがはしゃいで見せた。
 グラスに入ったレモンイエローのハーブティーを、若菜ちゃんはまじまじと見つめる。そして、未知の飲み物を口にするみたいに、そっとグラスに口をつけた。
「おいしい」
 そうつぶやいて綻ぶ表情は、とても可愛らしかった。
「あの、かおるさん」
 シャーベットを食べ終えてから、若菜ちゃんが言った。
「私、転校することにしたんです」
「そうなの」
 かおるさんが目を見開いて言った。
 律くんは少し気まずそうだった。
「はい、あの学校には、楽しい思い出もあるけど、やっぱり辛いことを思い出してしまうから……」
「そう。若菜ちゃんが決めたことなら、応援するわ」
 かおるさんが優しく言った。
「あの、転校っていっても、隣の学区だからそんなに遠くないし、またここにも来ます。早苗先生にはお世話になったのに、申し訳ないけど……」
「早苗先生、可愛い生徒がいなくなってさみしくなるでしょうね。でも、やっぱり同じ気持ちだと思うな」
 その言葉に、若菜ちゃんは少しほっとしたような顔をした。
 早苗先生ーーそうか、この子は、早苗先生の学校の生徒だったんだ。
「そう。だから、今日は森田が新しい学校でうまくいくように、なんつうか……ええと」
 律くんが照れながら、ごにょごにょと言葉を濁す。
「お祝いね」
 と、かおるさんが引き継いだ。
「そう、それ、お祝い」
「じゃあ、今日は律のおごりってことで」
「ええっ、息子から金とんのかよ」
「とるわよ、そりゃあ」
 かおるさんが笑って、二人もつられるようにして笑った。
 前を向いて歩いていく人もいれば、同じ場所で立ち止まって動けない人もいる。
 私は、いつまで現実から目を逸らしているのだろう。
「舞ちゃん」
 ふいに呼ばれて、はっと顔を上げた。
「さっき、ハーブティーを余分に作っちゃったの。よかったらどう? 『飲むと嬉しくなる』ハーブティー」
「……いただきます」
 目の奥に、じんわりと熱いものがこみ上げた。
 絶対、私のために余分に作ってくれたのだ。でも、それを口にしないところがかおるさんらしかった。

 いつものように窓際の席でのんびりハーブティーを飲んでいると、かおるさんが窓の外に目を向けた。
 曇りガラスの向こうに、ゆらりと影が見える。
「お客さんかしら?」
 かおるさんが言って、お店の外に出ていった。少しして、扉が開いた。
 入ってきたのは、杖をついた初老の男性だった。髪はほとんど白髪に近いグレー。黒縁メガネをかけている。
「いらっしゃいませ。お好きな席におかけください」
 かおるさんが言うと、彼はどうも、とうなずいて、いちばん奥の席に座った。
 その動作に、舞はかすかに違和感を覚えた。
 なんとなく横目で見ていたが、ふいに目が合って、とっさに目を逸らした。
「ご注文はお決まりでしょうか」
 かおるさんが尋ねると、彼はメニューから顔を上げてメガネの位置を直した。
「この卵かけご飯というのは、モーニングだけでしょうか」
 壁の時計を見ると、午後二時。当然、モーニングの時間は終わっている。
「はい。モーニングのメニューですが、いまからでもご用意できますよ」
「いいんですか」
「お客さんがモーニングだと思えば、それはモーニングなんです」
 と、かおるさんは何か哲学的なことを言った。
「はあ……じゃあ、それでお願いします」
 彼は少し申し訳なさそうにしながら、続けた。
「妻が作ってくれる朝食が……なんの変哲もない卵かけと味噌汁なんですけど、それがおいしくて、思い出してしまうんです」
「素敵ですね」
 かおるさんがにっこりと微笑んだ。
 彼はははっと我に返ったように慌てて、
「ああ、すみません。いきなり自分の話をしてしまって……じつは、以前妻に聞いた話を思い出して、ここに来たんです」

『会いたい人に会える喫茶店。そういう不思議な場所があるの。ね、もし私がいなくなったとして、そのお店で会えたとしたら、あなたどうする?』

「おとぎ話みたいだと、私はまともに取り合いませんでした。そのすぐ後、妻は息を引き取りました」
 ああ、この人は、聞いてもらいたいのだと思った。
 舞も、同じだったから。
 誰にも言えない、傍から見ればくだらないように見えるかもしれない自分の内にある弱さを、知ってもらいたい。誰かに、いや、この不思議な女性に、私の話を聞いてもらいたい。
 毎日、同じ席でハーブティーを飲みながら、そう思っていたのだ。
「妻の話では、お互いに会いたいという気持ちがあれば、会えるということでした」
「ええ。確実に、ではありませんが」
 そうですか、と彼は視線をテーブルに落とす。
「それなら、会うことは叶わないかもしれませんね。はっきりと口にはしませんでしたが、妻には私のほかに、想い人がいたようですから」
「それは違うと思いますよ」
 かおるさんは言った。なぐさめるように、でも、はっきりとした口調だった。
「そんな……何も知らないあなたがどうして」
「いいえ。知っています」
 知ってる?
 舞は驚いて、二人を見た。
「私は以前、奥様にここでお会いしたことがありますから」
 と、かおるさんは微笑んで言った。

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